散歩よ共に泣いてくれ
金がなく何もできない時期には散歩が娯楽となり得る。酒を啜りながらそこいらを彷徨くとか、深夜の空気感を味わいがために徘徊をするというのではなく、日が高い時間にあてもなく流浪するが如くそこいらを彷徨うのが娯楽になりえるのだ。
散歩、といえば何かしらの目的を持って果たされる行為である。例えば、今の自分で言えば運動不足の解消だとか健康のためだとか、マジでしょうもない目的が首から下がっているため散歩に出発(でっぱつ)する。体外、日が傾いて熱くなる時間帯に出かけては、夕餉の時間に家に舞い戻る。健康を求め彷徨う骸のようである。ここに娯楽性は露程も存在しない。
では、娯楽性のある散歩とはなんぞやという話になるのだが、はっきり言おう。娯楽性を孕ます散歩というのは、特定の条件下でしか見出だせないのだ。その条件とはなにか。冒頭でも書いた通り、赤貧に埋もれた際に散歩が娯楽性を孕ます。
昔からそうであるが、娯楽というのは非常に金がかかるものである。楽しむためであればそれなりの金をPAYしなければならないし、飲む・打つ・買うとなるとさらなる膨大な金が必要となる。極論を言えば、金と娯楽は肩を組んでスクラムを成すような関係性であり、金を持っているからこそ娯楽を十全に楽しめるというものだ。なので、金を持っていない人間は十分な娯楽を享受することは不可能であるし、金のかからない娯楽などと言ってそこいらの道草を毟っては頬張って、油蝉などを掴まて生のままで貪るなどの凶行に走るほかない。金があるから羽振りきかせて舞台で女と踊るし、金が無いから隅を歩いて木に停まる虫を食べる。たまの休みは南千住で、笑い転げる土手南瓜。
して、娯楽性のある散歩であるが、これがはっきり言ってつまらないものである。つまらないのだが、重要なのは、この散歩という作業に没頭できているかどうかである。またこいつ意味のわからないことを、と思う前に考えてみて欲しい。散歩に出かける理由は「そこいらを歩きたいから」という移動欲から湧き上がるのものだ。歩いて歩いてどこかに行ってしまいたい。できれば今自分がいる世界以外の何処かへと。現実から目を背けるがごとく、日に背を向けて。歩く歩く歩く。という現実から脱しが散歩の本懐であると思うので、歩くという移動に没頭できるのは散歩の極意と言っても良いのではないか。なので、散歩になにか娯楽性を見出すというよりは、移動の本懐にどれほど浸れるかで散歩の質が変わってくるのだ。
移動という行為にだけに没頭する。それはつまり、散歩をしながら「なんかこのあたりは、名物っぽいかまぼことか売ってて良いね。万引きしたい」とか「へぇ、こんなところに見事な菜の花畑があるなんてしらなんだ。毟りたい」とか勝手な感じでEmotionalに浸ることではないく、移動そのものだけに集中して、まるで世界には自分一人しか存在しないかのごとく振る舞うことにある。目線を正面ではなく、やや下に向かって50°の角度を維持したまま、ギリ前を捉える事ができながら視界のメインは自身の足が大半というような視線を維持する。そういった視界のまま移動の作業に没頭することが散歩というものなのだ。
「でもそれってなにが楽しいんですかぁ」と乳白色の肌をして肩のあたりを露出した服をきた女が質問してくるだろう。美しい、付き合いたい。僕は彼方に向かってこう答えるだろう。「マジそうっすよね、意味わかんないっす!」と。違った、そうではない。想像して欲しい。金のない人間がなぜする必要もない散歩に没頭するのかを。
辛いのだ。考えたくないのだ。部屋にこもって何もない時間を過ごしてると、なんの為に生きているを長考しては、自身を責め立てるような考えばかりに行き着いては自傷行為が如く自らを慰める。そんな非生産的な思考と行為ばかりが渦巻いて、醜悪とも言える空気が自室の中に滞留している。自我で溢れた部屋から脱するための娯楽は手につける事ができない。なぜか。金、金が無いからに決まっている。酒を舐めることもできなければ、菓子を買うことすらも難しい。そんな状況の中でなにをするべきなのか。外に出て現実から目を背ける以外に他ないのだ。
歩いている間は、現実を考えなくて済む。というか、歩いていれば徒歩という行為に集中する以外にすることがないからだ。散歩というのは現実からの逃避という側面を持ちながら、現実からの救いという側面を持つ。なので、歩けば歩くほど嫌な現実を忘れることができる。市川駅から松戸駅までの7km、往復で14km歩いた僕が到達した一つの結論である。