見出し画像

写真を撮る意味が変わりそう。

父方の祖父が入院したと連絡が来たのは6月中旬のことだったと思います。

5月のゴールデンウィークは祖父母が住む青森に行き、家で一緒にご飯を食べました。元気そうでした。
コロナ禍には手術をしたと聞いてはいたけど、元気だと思っていました。

でも元気じゃなかったみたいです。

その後父が入院する祖父に会いに行き、写真が送られてきました。

もう見たことがないくらいに痩せてしまって、元気がない祖父でした。


あれ。ゴールデンウィークは祖父の写真撮ってたっけ。

そう思ってカメラロールを見返したけど、祖父の写真はありませんでした。あれだけ写真を撮ったのに、祖父の写真も祖母の写真もなかったのです。


痩せてしまった祖父の写真を見たこともショックだったけど、祖父の写真を撮っていなかった自分にもショックを受けました。


あれ。何のためにカメラ持って写真撮っているんだろう。

弱ったのではなく、元気な祖父を撮っておけたのに。しかもたった1ヶ月前だったのに。


写真家の濱田英明さんがこういった記事を書いています。

「シャッターは愛、ゆえに残酷」だと。

写真が愛ゆえに残酷なのは、対象がはっきりと切り取られるからなんです。反転してみると、愛していないものに対する仕打ちがはっきりと浮き彫りになります。興味がない、と言っているのと同じかもしれないのですから。これは写真を撮る者であれば、好むと好まざるとにかかわらず誰でもその立場に置かれることになります。

祖父のことは好き。でも写真には残していない。その時の自分は残していなかった。

なんで撮ってなかったんだろう、後悔ばかり募ります。

ただ、わたしたちが切り取らなかったものを愛していないかといえば、決してそうとは言い切れません。なぜならカメラはすべてを写すことはできないからです。わたしたちは常に限りあるフレームのなかで何を残すか、あるいは残さないかを選んでいます。自ずと対象への優先度が生まれてしまいます。名残惜しくも写さないと決断することもあれば、むしろ愛しているからこそ撮れない(撮らない)ということもあるかもしれません。

普段の私は人との写真を積極的に撮るタイプではありません。

高校生のとき、「写真撮ろ〜」とスマートフォンを持って友人が声をかけてくれましたが、写真は撮っても送られてきたりアルバムに入った写真はカメラロールに保存しませんでした。

濱田さんの言葉を借りると、写真で残すべき対象としての優先順位が低かったみたいです。


でも今回の件があってから、それでいいのか?と思うようになりました。

写真を撮ることは、自分のメモであり、バロメーターです。
あの時買っておけば良かったと思ったことはあっても、あの時写真を撮っておけば良かったと強く思うことはこれまでなかったのです。


お盆は祖父のお見舞いを兼ねて青森に行きましたが、流行りの病が再び増えていることもあり面会できませんでした。

そして青森から帰ってきたら、祖父の癌が転移したと連絡がありました。

余命宣告は受けていないもの、長くはないようです。


「人は生まれてくることと死ぬときは選べない」

今やっているドラマで言っていましたが、そうなんだと思います。


元気な祖父に会えるかはわからないけど、会えるうちに会いに行きます。

そしてどんな姿であっても、祖父の写真を撮ろうと思っています。


後悔のないように残しておく。

記憶にも写真にも。
残しておけるようにしたいと思った最近でした。





追記:
9月の上旬、祖父が亡くなりました。会いには行けたけど写真は撮れませんでした。でもその分、ちゃんと目で見て脳と心に刻みました。
写真は撮れない時があっても、自分の心には残し続けたいです。

いいなと思ったら応援しよう!