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モネの海が静かにピアノを奏でるとき
その日、ウサギとカメは東京駅で電車を降り、賑やかな大通りを足早に進んでいった。やがて視界の先に、大きなガラスをまとった建物が現れる。
館内へ足を踏み入れると、そこにはいつもとは違う気配が漂っていた。一つ一つの展示物が、まるで生き物のようにわずかに動き、かすかな音色を奏でている。
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毛利悠子「ピュシスについて」
目の前では、天井から吊るされたモビールが、ゆるく気まぐれに回転している。風もないのに、誰かがそっと触れたような動き。そのわずかな揺らぎが、空間に小さな波紋を広げていた。
「ねえ…なんだか、作品たちが息をしているみたいね」 ウサギは、ふわりと揺れるモビールを見上げた。
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「磁力や重力、目には見えない力を、芸術として形にしているんだよ」
カメは落ち着いた声で言った。
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「ねえねえ、これってどういう仕組みなの?自動演奏みたいだけど、なんでスピーカーに向かってマイクが置かれてるの?」
「スクリーンに映ってる海の波の音を、このマイクで拾って、デジタル信号に変えているんだよ」
「この静かなピアノの調べを…海が奏でてるってこと?」
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「この作品は、クロード・モネが描いた『雨のベリール』とコラボしているんだ。だから、この海はブルターニュにある」
「ということは、モネが描いた海が、このピアノの演奏者なのね」 ウサギはそっと目を閉じた。「モネがこの音色を聞いたら、きっと驚くでしょうね」
「ブルターニュの海を見て、モネは『雨のベリール』を描き、毛利さんはその海をピアノの音にしたんだ。そして今、僕たちはその音色を感じている」
二人はピアノの音に耳を澄ました。
ブルターニュの海を心の中に思い描きながら、そっと身を委ねていた。