おまえうまそうだな
枯れ葉がひらひらと舞う、静かな秋の昼下がり。ウサギは紅茶専門店のテラス席に腰を下ろし、アールグレイのカップを両手でそっと包み込んだ。
空に向かって広がるパラソルは、夏の鋭い陽射しが過ぎ去り、ほっと息をついているかのようにみえた。少し寂しげでありながら、どこか心地よい秋の空気が、ウサギをそっと包み込んでいた。
紅茶をひと口含むと、そっとカップを置き、一冊の本を取り出した。細い指先でページをめくると、風の音と紙の擦れる音が微かに混ざり合い、優しいハーモニーを奏で始めた。
ずっと昔、遠い原始の時代のある日、卵から小さな恐竜が生まれた。まだ名前もないその赤ちゃん恐竜に、ティラノサウルスが目をつけた。「おまえ、うまそうだな」彼の重々しい声が響くと、物語に命が宿った。
「赤ちゃん恐竜が自分の名前を『うまそう』だと思い込むなんて、その瞬間がもうたまらなく愛おしいの。無垢なその姿が、凶暴なティラノサウルスを少しずつ変えていくんだから」ウサギは微笑みながら、そっとページをめくった。
「うまそう」はティラノサウルスに向かって「お父さん」と呼びかけた。そして毎日、彼のためにせっせと赤い実を集めてくる。そんな健気な姿を見つめるうちに、ティラノサウルスは自然と子育てを始めていたのだった。
「岩に体当たりするコツや、尻尾の使い方を教えるなんて、ティラノサウルスもすっかりお父さんね」ウサギはそっと微笑んだ。
月日は流れ、ある夜、ティラノサウルスは「うまそう」に別れを告げた。小さな恐竜はアンキロサウルスであり、彼と同じようには生きられない…。その現実が、二人の未来を静かに引き裂いていった。
「幸せになれよ」ティラノサウルスの最後の言葉が、少し冷たくなった風とともにウサギの首筋をかすめた。彼女は肩をすぼめ、震える手で静かに涙をぬぐった。
ティラノサウルスの優しさが、柔らかな枯葉のようにウサギの心にそっと舞い降りた。それは消えることなく、彼女の心の片隅に静かに居座り続けていた。
<おまえうまそうだな>
宮西達也 作・絵/ポプラ社