「雨の記憶」は今
二年前。当時高校生三年生だった僕は、陸上部としての最後の総体に臨んでいた。専門は100m、短距離選手だ。
と言っても、僕の走力は素人に毛がついた程度のものであり、上位大会の進出は確実に不可能だった。しかし、そんな鈍足で雑魚の僕には一つだけ目標があった。
それは、
100mを11秒台で走ること。
100m11秒台は、短距離選手にとって一つの壁だ。陸上を知る人の中には、「100mを12秒で走るのは誰でも出来る。ただし11秒台を突破するには、それなりの才能が必要だ」と主張する人もいた。それだけ大きな壁なのである。
だが、難しいと分かっていても叶えたい夢だった。特に何かに秀でているわけでも無い僕だけれど、陸上部に入ったからには何か限界を突破したい―。安直ともいえるその理由を胸に、僕はただひたすら走りに向き合うことにした。
その練習というものはしかし、辛く苦しいものだった。部内の分裂や怪我の多発など様々な障害が僕を襲った。いくつもの危難を乗り超えて、同じ数だけ陸上が嫌いになって、僕は何度も強くなったり弱くなったりを繰り返した。
そうして迎えた当日。
僕は、0.1秒の差で11秒台を逃した。
かけがえのない、だけど同時に塞ぎ込みたい思い出。土砂降りの中で行われたこのレースは、視界を曇らす雨や涙が鮮烈な印象を残し、「雨の記憶」として僕の後悔に強く刻まれることになる。
そんな雨が止んだ。
先日行われた、陸上競技の大会。
この大会は、持ちタイムの近い人たちと一緒に走るのが特徴だ。分かりやすく言い直すと、実力が近い人と一緒に走るということである。僕は元々競ると強いタイプなので、好記録を期待していた。
コンディションは万全とはいかないまでも良好。天気は涼しく、風は微風の追い風。二年越しの夢を叶える環境は揃っていた。
昼前に降った雨の余韻が香る。少し雨の臭いが残る青いタータントラックへと足を踏み出す。
閉塞とした会場内に一陣の風が吹く。少しザワっとして緊張感が募った。
何度レースに出場しても慣れないこの感覚。
トラウマのように蘇る雨の臭い。
On Your Marks
周りが思い思いのルーティンをする中、ノーモーションでスタートの準備をする。
Set
体を前方に倒し、光る一足分の未来を見つめる。
Bang
倒れ込んだ。そのまま足を出す。慣れないスタートだったからか、スタート直後に体が浮いて、一瞬他の人から置いていかれそうな気持ちになった。
いやまだだ。
起きた身体を、再度低く入りなおして加速していく。
足を前へ前へ置く感覚。地面から貰う反発力を感じることが出来ないまま、足の回転を上げた。
全ての音が後方へと抜けていく。
中盤の意識はほとんどない。
ただ、本能よりも深淵にある意識で走っていた。
ふと気づいたのは70m付近。前方に誰もいないことに気づき、さらに「(先頭は)五レーン、○○君。△△大学」と自分の名前がアナウンスされた。
「あ、俺今一位なんだ」
そう思った瞬間、身体が急に重くなった。二年前の「雨の記憶」が脳内を過ぎる。視界がグラグラ揺れ出し、あの日のように狭くなり始めた。
「もう、雨は降ってない!!」
僕は、固くなり始めた身体を懸命に動かした。「指先ではなく、肘。膝ではなく腰。身体の真ん中で走れ。」そういう大学の同期の言葉を思い出し、必死に身体を動かした。
青に光る白色のゴールラインが近づく。
後ろからの足音が徐々に近づく。
タイムをカウントする黄色の文字。夢へのタイムリミットに迫る。
その一歩を、早く、早くゴールラインへ運べ。
ゴールに飛び込む。
速報タイムは11.76。
紛れもなく、そのタイムは僕のものだった。
何てことない。ただの通過点に過ぎない。
そう僕は自分に言い聞かせる。
一方で、過去の悔恨が晴れていくような気持ちがした。近くに誰もいないことを確認して、ガッツポーズ。たぶん誰から見ても幸せな顔をしていただろう。
雨は止んだ。
その証拠か、涙は出ていない。
……。
後日談と言うか、今回のオチ。
試合後、陸上部の友達が言ってきた。
「お前の11秒台、自分のことのように嬉しいよ。
お前はまだまだ速くなれる!」
まだ終わらせてくれないらしい。
永遠と続く明るい絶望感、でもそれは嫌いじゃない。
だから、次のゴール先は、ほんの少し前に置いてこようと思う。