中目黒の赤い橋の上 【前編】
三軒茶屋に住んでいた頃、中目黒の相田君の部屋まで、夜更けの246をよく自転車立ち漕ぎで通った。青い自分を丸出しにして。
入り組んだ路地の奥の、四部屋しかないアパートの一室に相田君は住んでいた。そこで見る空は都会らしく狭く四角くて、陽当たりさえ微妙だったけれど、その窓から眺める空が好きだった。
相田君は四季に無頓着で、真冬の深夜にアイスを買いに行こうと誘ってくるし、真夏の午後に鶏の水炊きを振る舞ってくれたりした。秋は薄着で「寒い」と肩を縮めるし、春は厚着で「暑い」と襟口をあおぐ。
部屋着は一年じゅう、緑色のスウェットパンツだった。上京前からもう四年履き続けているというそれは、お腹のゴムがやる気を失って弛んでいた。緑も全体的に色褪せてしまっていたし、よく見ると、お尻の縫い合わせの部分に小さな穴まで開いていて可愛かった。その部分に小指をそっと差す。「ん?」と素早くこちらを振り返る相田君の、その仕草が優しかった。
労働の後の夜更けに、買ったばかりのスマホを開く。〈この作者いきなり絵が巧くなってる〉という感想と漫画雑誌の開かれたページの写真が、一時間前に届いていた。まだ起きているだろうか。〈読みたい。寝てる?〉と返事を送る。店を出て、自転車を漕ぎ出す。最初の信号のところでスマホを確認する。
〈起きてるよ。来る?〉
自転車で二十分。
〈行く〉
信号が青に変わる。勢いをつけてペダルを漕ぎだす。煙草と揚げ物のにおいと眠気をまとった体で会いに行く。
8月、目黒川沿いでは一日中セミが鳴いていた。アパートのそばの赤い橋の上、この時間にいくといつも相田君が緑のスウェットパンツ姿で迎えに出てくれていた。
街灯に照らされて、橋の中ほどにゆらりと立つ相田君は一年中クリスマスにいるみたいで、いつかもし、ふたりでいる時間が終わって、相田君が記憶の中だけの人になったとしても、この風景を忘れることは一生ないのだろうと思った。
悲しみの予行演習みたいに、ときどきそんなことを想像する癖があった。
相田君、と声に出さずに呼ぶ。少しズレたタイミングで自転車に乗った私に気がついて、「お、」という表情を見せる。ふいに泣き出したくなって、急いで目の前まで行く。ゆっくりとした動作で私からハンドルを奪う相田くんの腕に触れる。相田君、と声に出さずに呼ぶ。「なに、」と相田君が笑う。
エキストラのアルバイトで、ドレスコードのあるレストランでの撮影に参加した春の朝早く、その現場で相田くんと出会った。
震災からひと月しか経っておらず、節電が徹底されていて、夜が地元のように暗かった。早朝の街並みは澄んで、鳥の鳴き声だけが響いていた。ゴミも震災前に比べれば減っている気がしたけれど、代官山という土地柄かもしれなかった。
事務所のスタッフの指示に従って動いたあと、店の隅に移動した。早く着き過ぎたようで心許なかったけれど、すでに待っている人がいた。相田君だった。
そのままペアを組まされ、同じテーブルに着いた。いざ座ると、それまでの緊張は薄れて、いいことが起こる予感がした。
「よろしくお願いします」と目を見て言う。「楽しみですねぇ、今日」柔らかく笑いはじめる人だった。「はい、あー、でも初めてで。けっこうがちがちです」「大丈夫です、大丈夫です、楽しみましょう」。
相田君は白いシャツに淡い灰色のセットアップで、私は桜色のワンピース。白ワインに見えなくもない白葡萄のジュースを挟んで向かい合っていた。
長い待ち時間も撮影が始まってからも話し続けた。誰とも一致したことのない趣味と、口に出すほどではないけれど密かに引っかかっていることが同じだった。相田君の声を聞いている途中でふと、今日までこの人と会ったことがなかったんだ、と考えてみた瞬間があった。そう考えたことが不思議だった。
一期一会の恋人役、ドラマの撮影現場という非日常感も相まって、解散後、旧山手通りをひとり祭りの後に似た気分で歩いたことを覚えている。
不慣れなドレスアップも久々の代官山も、駅にたどり着けば覚めてしまう夢みたいで、名残り惜しさから西郷山公園へ立ち寄った。
両方の踵に靴擦れができて痛かった。小高くなった芝生の上で、パンプスを脱いで足を投げ出していると、背後から「めちゃめちゃ寛いでる人がいる」と笑う声がした。
振り返ると相田君がいて、体を少し前屈みにして笑っていた。