「優秀な人」って、結局どんな人なんだろう
あなたは優秀だから、マネジメント職に就くことも考えてほしい。
そう言われて、は?私のどこが優秀なん?と、割と本気で思った。
会議で黙っちゃう私。質問に答えるのもたどたどしいし、すぐ「持ち帰ります」って言っちゃう。会話のテンポが基本的に遅いし質問も応答もとにかくレスポンスが遅い。プレゼン自体も全然うまくない。とにかく会議での立ち回りが壊滅的に下手。
優秀な人って、会議でちゃんと存在感出すよね。
喋りすぎはしなくても、きちんと主張したりするよね。とくにマネジメントの人なんか、言うべきことをちゃんと言うのって大事な力だと思ってた。
ここが致命的な私は、絶対マネジメントに向いてないと思ってた。
向いてないとやりたくないは違う、とも思うけど。
優秀ってなんだろうか、と時々考える。
どこの会社だって優秀な人材がほしいと言っている。
では優秀とは具体的に何なんだろう。
もちろん仕事は会議だけじゃない。
自分の担当の仕事を進めていく上で言えば、私はわりかし仕事が早い方だと思うし、残業も少なく済ましている。
仕事の指示や連絡を、1聞いて10理解する、とまではいかなくとも、1聞いたら3くらい理解して、確認を経て5理解する、くらいまではいけていると思う。
でもこれは、私が特別できていることでも何でもなくて、他の人も当たり前にやっていることだし、これに加えて会議での立ち回りが上手い人もたくさんいるんだから、私が優秀と言われる理由は全然ない。
(インポスター症候群、というものを疑ってみても良いけれど、やっぱりその次元ではない気もする。)
仮に私が「プレイヤーとして優秀」なのだとしても、だからマネジメントに就くということには全然つながらない。
会社で「評価される」ということが、ほとんどの場合「管理職に就く」ということだから、仕方のない話かもしれないけど。
とにかく、今何を認めてもらえていて、自分が今後何を求められているのかわからない。
聞けば良い話ではあるけど。
話は戻って、優秀な人って何だろう。
仕事がデキる人、コミュニケーション能力の高い人。
きっと数えきれないほどのいろんな項目があって、目立った苦手分野ががなく全て平均以上。なんなら全部高得点…そんなイメージ。
学校と違って、仕事をする上ではその項目(科目)がめちゃくちゃ多いと思う。
しかも、自分が身を置く業界や業種、時代によっても必要な項目が変わるし、重みも違うだろう。
だから、ある場所での「優秀な人」がいつでもどこでも優秀とは限らない。
項目が定まらないからこそ、減点法ではなく加点法で見ていかないと、仕事は回っていかないんじゃないかしら。
あの人はこれが苦手だから、この仕事は任せられない。ではなく、
あの人はこれが得意そうだから、この仕事をまかせてみよう。と考えてみるとか。
誰にだって得意なことはあるはずなんだ。
だってこの会社の入社試験を突破したわけだし、この会社で教育されてきたわけだから。これは半分皮肉だけれど。
人を評価するために、いろんな項目がある。
仕事の早さ、仕事の質、トラブルがあった時の対応の仕方、情報共有の仕方、教育の仕方、新しい知識の勉強、もっともっと、数えきれないくらいある。
これらを評価して、給料や処遇が決まっていくのは、結構一般的な話だと思う。
普通は上長が、何らかの評価を与えるけれど、当然、働くもの同士、同僚でもお互いに評価し合ったりする。
あの人はこうだとか、その人はどうだとか。
私は意図的に、そう言うことを言わないようにしている。基本的に自分に自信がないから、人さまを評価するに値しない立場だと思っているから。
だけど、結構辛辣に同僚を評価する人もいる。
そういうのを耳にした時、あぁこの人は自分に自信があるんだなと思ってしまう。
そう言う自分は完璧なのかと、そう言う自分に欠点はないのかと、私の目線は評価された側より評価した側に向いて、私はその人を評価してしまいたくなる。
「優秀なのにもったいない」
この言葉も呪いだ。
「○○なのにもったいない」
大学卒業したのに、ここまで続けてきたのに、資格を持っているのに、これができるのに。
ないからできないのではなく、あるからそれに縛られる矛盾。
資格やモノならまだわかりやすいが、ぼんやりしたものを手にしているが故に別のチャンスを手放さなくてはならないことは、よくある。
もったいないなんて、他の人が決めないでほしい。言うだけタダだけど、本人だって気にしているかもしれない。これを捨てるんだってものすごい勇気で決めてきたのかもしれないのに、他の人が評価するなんて失礼じゃないかと思う。
優秀な人とそうでない人とを分けたとしたら、優秀な人の方がきっと少ない。
少ない人だけで社会を回すことを考えるより、お互い助け合い、育ち合いながらそれぞれの能力を持ち寄る方がいいのではないのか。
ただでさえ働き手の母数が少ないこれからの時代、人を選んでいては何もできなくなってしまう。
いい人がいない、いい人材がいない、それなら育てればいいのに、その方向に社会が向いていかないのはなぜだろう。
結局は育てる側、つまり今いる人が労力を惜しんでいるだけなんじゃないかと思ってしまう。
なんやかんやで、どの立場の人も自分から動くのは面倒なんだ。
即戦力を求めるとか、経験者優遇とか、積極的な人を歓迎とか、つまりは受け入れ側はなるべく労力を割きたくない。
優秀な人というのはある人にとっての都合のいい人であって、エネルギーがあって気の合う人、気がつく人。
そんなふうに、穿った見方をしてしまうほどには、社会の、会社の歪みを感じている。
いろいろこねくり回して考えた結果、私の中で優秀さとは、「人柄の良さ」かなと思った。
人の話をまっすぐに聞ける、相手を尊重しながら対等なコミュニケーションが取れる、自分の仕事に責任を持って取り組む、立場や立ち位置を考えた言動をとる。
当然、機嫌に左右されたり突然怒ったりしない、むやみに愚痴や悪口や偏見を言わない、とかも含む。
こういうことって、いくら外から指示されてもできない人というか、馬鹿にしてやらない人って結構いる。
そういう「資質」的な意味では、人柄というのは動かぬ指標なのかもしれない。
聖人である必要はない、けれど本音だけで仕事がうまくいくほど人間は整っていないものだと思う。
ここ数ヶ月で考えていたことをメモし続けていたので、めっちゃ長くなってしまいました。
今後もたぶん考え続けると思います。
嘘でもなんでも、優秀と言われれば嬉しかったのは事実。それでも、やっぱり評価の沼からいつか抜け出せることを希望します。評価されるだけではなくて、評価することもしたくない。できることなら。