
大江健三郎 『死者の奢り』『万延元年のフットボール』他
自分の読書遍歴を振り返ってみると、最初に自らがある作家、ないし作品に対して、人生の一途をかけて没入しても良いと思うに値したものがプルーストの『失われた時を求めて』だった。
かれこれ自分はそこから哲学、科学、数学、語学と渡ったり、文学に際してもフランス文学から英米文学、戦後日本文学にその主たるを移したりと様々であったけれど、その際にこの仕様のないリストにT.S.エリオット、トマス・ピンチョン、小林秀雄、そして大江健三郎の名前が加わった。
日本の文学史にとってそのメインストリームが私小説だったことは言うまでもない。川端康成も太宰治も三島由紀夫も極めて優れた文章を書いたわけだけれども、彼ら以上にその系譜を支えたのが田山花袋であり小島信夫であり吉行淳之介であり古井由吉であり葛西善蔵であり、そして極め付けは庄司薫であった。
この一連の作家群が為し得たことはとどのつまり、自らという世界にして唯一たる観念に対して、かつてその集合によって創り出された社会と呼ばれるやはり観念とそれへの距離を測る指標として言葉をもってペンをもって徹底的にこのうちに湧き上がる観念を記述しあげたことだったと言って差し支えないでしょう。
大江健三郎の登場はその点、私小説という系譜にとって、日本の戦後文学の歴史にとって一つの完成だった。これは特に1994年にノーベル文学賞が彼に授与されるにあたってノーベル財団が著述した受賞理由にも明らかだった。
「詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている」
大江は愛媛県の片田舎に生まれた。その後、上京して東京大学で文学を修める傍らで、初期の短編でもある『奇妙な仕事』と『死者の奢り』という遺体処理をテーマにした作品を在学中、上梓している。特に1958年に上梓された『飼育』はその年の芥川文学賞に選ばれた。卒業を迎える1年前の出来事でもあった。
大江文学は他の作家と比べて、初期・中期・後期での作風上の変化の線引きが比較的見出しやすい部類に属する作家で、デビュー作たる『奇妙な仕事』に始まり、浅沼稲次郎刺殺事件に基づく通称「セブンティーン2部作」と題された1961年の『セブンティーン』『政治少年死す』までで一区切り、そこから1963年、頭に障がいを抱えて生まれた息子、大江光の誕生によってこれを題材にした『個人的な体験』 、『空の怪物アグイー』、『新しい人よ、目覚めよ』、『洪水は我が魂に及び』で一区切り、これは中期第1期と見るべきでしょう。次いで人間の信仰と伝承と観念と信条にまつわる『万延元年のフットボール』、『燃え上がる緑の木』、『「雨の木」 (レイン・ツリー)を聴く女たち』、この中期第2期とも言える著作群がとりわけノーベル文学賞の選考委員たちの琴線に響いたようだ。
特に1993年から1995年にかけて続いた『燃え上がる緑の木』を通して自らの作家生活の最期となる作品として目論んでいたようだけれど、その意図は皮肉にも自らの作家性ゆえによく捻じ曲げられる。
1996年の武満徹の死と1997年の伊丹十三の死はクラシック音楽と日本映画の両分野に暗い影を落としたのみならず、両名ともに親交にあった大江にとってその衝撃は計り知れなかった。この経験によって『燃え上がる緑の木』は絶筆を免れ、その後、『宙返り』と『取り替え子 (チェンジング)』が上梓される。後期大江文学はそのような具合で始まる。
後期大江文学は基本的に自らの分身とも言える長江古義人をめぐる物語が主題となる。古義人は言うまでもなくデカルトの「我思う故に我あり (コギト・エルゴ・スム)」に由来する。
長江古義人の物語はいくつか語られるけれども特に2009年の『水死』と2013年の『晩年様式論』 (これが改めて最後の作品となった)は、老いていく自らと残される人々とそれでも続く社会の関係とを文学的に歌い上げた傑作中の傑作と言ってもバチが当たらない。
大江健三郎というのは、特に中期以降、広島の反原爆団体や沖縄の反基地団体、反原発などを掲げる団体に接近したり、自らを「戦後民主主義者」なんて形容するくらいだったから、とにかく右翼との折り合いが悪い。思想的には完全に旧社会党の系譜に属している。
ところで『万延元年のフットボール』は根所蜜三郎とその弟の鷹四との人間関係をめぐる物語であるのだけれど、その冒頭で蜜三郎の友人が「顔を赤く塗り、肛門にキュウリをいれて縊死する。」(原文ママ)という超設定盛り盛りの強烈な場面の回想から始まる。
これは長らく映画監督のジャン=リュック・ゴダールの代表作『気狂いピエロ』のオマージュであるという解釈がなされてそれを元に様々なメタファーが考察されたわけだけれども、どうやらこの首吊りが実在した事件だったらしいというのを今年の夏頃に伺い知って、改めてそんなことがと思うと同時に確かに大江ならこれで何か書きかねないなとも納得したりもした。
とにかく自分にしても他人にしても、遠慮なく姿形を変えて舞い落ちる「死」というものに対して、ちょっと執拗なくらいにその心情の機微と歴史は神話を記号化させて現実の事象に対していわば「錯視」を企てるろいうのが、この作家の類稀な点なのでしょう。
これがまた「性」に対してもまた強烈に同様な手法を取るのもまた大江健三郎だということも然り。
私小説という系譜は良くも悪くも性との相性があまりにも良い。
それは自分の性にとってそうだし、他人の性にとってもそう、まして自分との性や他人との性に関してだって、いわばその記述への妙がまた一つその作家の腕の見せ所とも言い得たわけで、そういう意味で言えば大江にとっての性文学としての側面は、特に中期以降、なおのことそうでもあるのだけれど、性交と妊娠と出産とを、死と死者と流産と障がいとで対比させ、かつそれへの逃避として自慰とアナル・セックスとレイプとが結実される。
言い換えれば理性と本能と現実とが歪つな力関係の中で矯められて、非現実で反社会的で不条理な方法が結果として解決に導かれるというのは、やっぱり大江自身が初期から一貫して用いた手法で、特にこれは最初期の『死者の奢り』に出てくる妊娠をしていた女学生が堕胎する費用を工面するために死体運びのアルバイトをするという舞台設定がまさしく象徴的で、その先鋭さにすっかり虜になってしまったわけであるのだけれど。
ところで以下は余談ではあるけれど、村上春樹の初期3部作の中篇『1973年のピンボール』は明らかに大江の『万延元年のフットボール』のオマージュであることは言うまでもない。
そういう意味では、1980年代になって村上が最初の小説『風の歌を聴け!』に取り組む頃、中期の絶頂期を迎えていた大江の文章に少なからず接していたという点は、絶対に留意しなければならない事実の一つで、大江健三郎といういわば補助線を介さずして村上文学のこの中篇を評価することは明らか成り立ち得ないことであるのでしょうけれども。