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サルトル 『文学とは何か』

村上春樹が1979年に最初の小説『風の歌を聴け』を上梓し、そこから続く『1973年のピンボール』(1980)、『羊をめぐる冒険』(1982)を発表した。この「鼠三部作」もとい「初期3部作」の中で村上は、自らが何故小説を書くのかという問いを自らに立て、それを小説という形でこれを体現した。

作家が何故、文章を書くのかという問いは、創作をする者であれば誰しもが多かれ少なかれ臨まなければいけない問題で、そこには浅かれ深かれ多くの作家たちがこれに答え、自らの作家性と係るその態度を裏付けようとした。
例えば日本における近代文芸評論の祖、小林秀雄がその最初の評論である『様々なる意匠』(1929)の中で「批評とは竟ついに己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」と象徴的にこれを宣言したのも、実に暗示的だ。

その点、特に戦後のフランスを代表する哲学者、ジャン=ポール・サルトルが1948年に上梓した『文学とは何か』は、この問いに対するサルトルなりの考えを示したものと考えて概ね問題ない。
ところでこのサルトルを哲学者と紹介することには何ら不都合はない。しかし一方でそう定義するには同じくらい、あるいはあまりにもサルトルは小説家であったし、戯曲家であったし、劇作家であったし、評論家でもあった。これについてはピアニストのグレン・グールドの自己紹介を思い出す。エキセントリックなエピソードの数々と極限までに研ぎ澄まされた技巧表現の数々で一世を風靡した彼は自らを「作家であり評論家でありテレビ・ディレクターでありアナウンサーであり台本作家であり、ついでにたまにピアノを弾いている人間だ」などと茶化して言ったものであるけれど、サルトルの場合も負けず劣らずに手広い作品制作に裏付けられた作家としての視点の高さを伴っている。いわんやノーベル文学賞にノミネートされ、しかもこれを辞退した人間でもあるのだから、その態度の気高さはただ単に文章のうちで完結するものではないことも深く頷ける。
彼の代表的なところを挙げていけばまず小説として『壁』(1937)、『嘔吐』 (1938)、戯曲では『出口なし』 (1945)、評論で言えば『ボードレール』(1947)や『ステファヌ・マラルメ』 (1986)、次いで自伝として『言葉』(1963)があり、哲学に関してはもちろん彼のあらゆる著作の中でも代表作と言ってもいい『存在と無』 (1943)、『自由への道』 (1945/49)、『実存主義とは何か』 (1948)、そして怪作『弁証法的理性批判』 (1960)などが挙げられる。こうした数々の著作に裏打ちされた人間が説く「作家は何故、文章を書くのか」への試みは、全くもって興味深い限りだ。

さて『文学とは何か』を読むにあたっては、彼の一連の哲学書、特に『存在と無』と『実存主義とは何か』を特に読み込んでおくとある程度、奥行きのある理解を得られると言うことを先に付言しておく。それと言うのも、彼の哲学であるところの実存主義、それも彼に関して言えば「無神論的実存主義」が先立って成り立つものであるから、もちろん『文学とは何か』からそのエッセンスを得ることは当然できるけれども、やはり事前にでも事後にでも、『存在と無』および『実存主義とは何か』を通じてこれに対する様々な文脈や論理の整理を図れば彼があらゆる創作を通じて主張しようとしたそれへの深い理解が得られることでしょう。この無神論的実存主義とは言い換えれば、真理を打ち立てる手法として神をその粋に用いないことを言う。言い換えればそれは人間が神に成り代わってその真理を代弁するということに他ならない。アンガジェする。サルトルはそれをこう呼んだ。それは世界の全人類を代表して行動すると言えば分かりいいだろうか。個人の責任としてではなく全人類の責任として、だ。中々重々しく、仰々しい。またそれを例えば核兵器の根絶や世界の貧困問題に対してこれを提起するのであれば、その力強い主張も輝きを帯びるけれど、それが例えば生活の一場面に対して、例えばサルトル自身の結婚や子どもを持つことへの考えやその態度に対して適応しようものなら、身勝手そのものだ。ただこうした人間の生き方や社会活動の仕方と分岐して、創作の世界において、創作をする作家のある態度としてこれを適応した時はどうだろう。作家にとってアンガジェするとは何かを位置付けたのが『文学とは何か』だ。

そもそもこの『文学とは何か』は、サルトルの生涯のライフ・ワークとなった『シチュアシオン』というシリーズの一作に含まれる。『シチュアシオン』は全10巻からなる評論集で、サルトルの他の例えば『存在と無』や『実存主義とは何か』のように単品で収まるような代物ではない。
内容も多種多様で、第1巻が評論集と題してモーリヤックやモーリス・ブランショ、バタイユの作品を論じ、第2巻が今回取り扱う『文学とは何か』、第3巻では「文明論」と題しているが、実際のところ「アンガジェするとは何か」といった趣きが強い。読み応えがある内容だ。第4巻が「肖像集」と題され、おそらく全10巻からなる『シチュアシオン』の中でも最もシチュエーションを重視した内容となっている。いわゆるサルトルと同時代の人たちを記録したものだ。5巻以降は政治的な内容がその主題となってくる。例えば植民地問題について (第5巻)は戦後フランスが胃を痛めた東南アジアと北西アフリカの独立闘争を取り扱うし、この話題はさらに派生して5月革命論 (第8巻)へと波及する。また冷戦下のフランスということもあってマルクス主義に関する議論が展開され (第6~7巻)、第9巻と第10巻では余録と諸論が収録されている。この辺の性格の変化は作曲家のルチアーノ・ベリオの「セクエンツァ」シリーズを思い起こす。

さてこの『文学とは何か』は4章からなる。はじめ「書くとはどういうことか」、次いで「なぜ書くか」、やがて「誰のために書くか」と来て最後に「1947年における作家の状況」と締め括られる。尤も、いわゆる文学理論としてある程度の普遍性を、時代や国境を超越して訴えかけるものは前半2章に尽きるかと思われる。それというのも後半2章に関しては後述こそするものの、作家と作家の生きた時代性という部分に着目して17世紀から現代 (1940年代)までのフランス文学史の中で作家がどのような環境下で作品を「誰のために」書いていったのかという話が延々と続く。これはもちろん、フランス文学にある程度、精通している人や、哲学から派生したあらゆる分野の文章を読み解くことに対して相応の「慣れ」を持っている人でないと、中々このセクションは取っ付きにくいし、何よりあまりにも知らなさすぎると、それはそれで余計に体力を消耗してくたびれてしまうことだろう。

サルトルは上述のようなアンガジェから随分と面食らう訳であるが、彼の主張を取りまとめると、読者と作家が手を取り合い、ペンというバトンを託し、読書という儀式を通じて、世界を取り戻そうというものである。その上でサルトルは読者というものをこれでもかと称揚する。

この世界をあるがままに、しかしその源が人間の自由のなかにあるかのように、見させることによって、世界を取り戻すのだ。

テーマは「解釈と認識」だ。人間は世界をありのままには認識できない。その過程には自らの解釈というフィルターを通してでしかその実情を知り得ない。これは17世紀から戦後に至る西洋哲学が培ってきた近世・近代の形而上学の伝統に基づく。デカルトは方法的懐疑という手法を通じて自らの肉体と精神との繋がりとを切り離した (心身二元論)し、それに対してスピノザとライプニッツは神学的な立場からその繋がりを擁護した (汎神論・モナド論)。カントは大陸合理論とイギリス経験論で異なって主張されてきた経験にまつわる相違に対して認識を作り出すフィルターを提起したし (物自体)、ヘーゲルはその過程を絶対知に至る一つの成長型のストーリーとして構造化した (アウフヘーベン)。そこから次いでブレンターノは内面で巻き起こる現象を外界の現実の対象あってのこととしてこの繋がりを復活させ (志向性)、フッサールはその旨を継承してあらゆる存在と自らという存在との繋がりはもはや同化していく (現象学的還元)。それに対してハイデッガーはそこからさらに跳躍して、同化したこの繋がりさえも曖昧なものとしていった (世界=内=存在)。やがてサルトルはこの過程の中で戦渦の中で占領されたパリのカフェで次のようなしたためを行う。

ものとものとの間に沢山の関係をつくり出すのは、われわれである。

これは実存主義の基本的な姿勢の一つであるけれど、その点、『存在と無』の第2部にあたる「まなざし論」が詳しく書き出されている。もっともここで展開される「まなざし」とはあくまで人間関係に係る内容であるけれど、『文学とは何か』においてはこの「まなざし」が作者から読者へと手向けられる作品として代替される。ここに係る「まなざし」とは作者自らの作品へ差し向けられる投企に他ならない。ここに作家による作品へのアンガジェが機能する。

最後にサルトルがこの中で申し上げた一節で特に象徴的な、というより一人の趣味作家として自分が身につまされるような思いを感じた部分を紹介する。

作家が読者から要求するものは、抽象的な自由の適応ではなく、読者の全人格をそっくり贈与することである。その情念、その偏見、その共感、その性的欲望、その価値の尺度を贈与することである。

つまるところ、喜怒哀楽を作家が読者に強制するのではなく、作家がアンガジェした作品に読者もまたアンガジェし、これを導くというのだ。手前勝手な理解なのでたとえ話をした方が分かり良いだろう。例えば恋愛小説を読んで、ヒロインの恋心に共感するのは、作者がそれを強制しているのではなく、読者自身の内面にある恋愛感情、延いては作中のヒロインが読者の内面のヒロインと合致して一人でに動き出して、物語を推し進めるのだ。これが読者自身の読書という儀式を通じたアンガジェと言えば分かりいいだろうか。またサルトルはこれをさらにこうも言い表している。

文学は、本来、永久革命の状態にある社会の主観性である。
(略)
作者は単に読者の自由へ呼びかけるだけであり、作品が何らかの効果を持ち得るためには、読者が無条件の決心によって自分の責任でその作品を取り戻すことが必要である。

この辺の含意は戦時中にナチス占領下のパリという極限の状態で『存在と無』を執筆していたサルトルらしいニュアンスにも思える。そして同時にそれが戦後、その時代を体験した多くの人々に熱烈な共感をもって迎えられたのも然もありなんと言ったところだ。

サルトルの『文学とは何か』は想像以上に力強い内容に富んでいる。それは読者と作家という関係を規定し、それをペンをもって、読書をもって「世界を取り戻せ」と要請する、これが一見仰々しいものにも見える一方で、同時に物書きの端くれとして、あるいは作曲家という屋号を背負っている手前、やはり創作に携わる人間にとってこうした様々は、身を引き締めるに十分なメッセージ性を持っているし、事実、これを生涯をかけてあらゆる創作の中で実践してきたサルトルのそれが強い説得力を持たせているのも大きい。

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