否定される、が前提にある場合
先日、「からだと魂と宇宙を繋ぐ葉山合宿 〜地上であなたの存在のスキルを発動・表現する〜 」という合宿型のイベントを行ない、それはそれは高い渦巻きとなっていった解散後の夜、
主催者3人で夕食を共にしている時に、私の中に久しぶりの「悔しさ」という感情が出てきました。そこで、私の中に「否定されて当然」という前提があることに気が付きました。
まさにその状況が映し出されて、私は「わかってもらえない」という気持ちでいっぱいになりました。これは、こどもの時に体験した気持ち。親にも友達にもわかってもらえない。誰にも心を預けられない。私には価値がない。
それが幻想なんだよ、と見せつけてくる2人。
心の傷は、その時に疼くけれど、それはその2人に付けられたものではなくて、奥底にしまっておいて忘れていただけ、のもの。普通に生活する分には支障のないものだけれども、
そろそろもうそれ要らなくない?
もうそんなところに自分の場所を譲らなくていいよ。
とでも言うような気づきが与えられました。
「否定される」が前提にあると、何をするにもビクビクします。何をしても否定されるからです。そうすると、正解パターンを求めます。
その正解パターンは、親の顔色です。
親が機嫌良さそうならOKなのだけど、機嫌が悪ければ自分のやることや自分の存在は不正解。
でも、人の機嫌なんて私とは関係のないところで変わります。
それらの機嫌の一切を請け負おうとして、機嫌の悪い人(親)の機嫌もよくなるようにがんばってきた過去は、今回の合宿で自分が提供したワークで瓦解したのでした。そのことに、自分の認識が追いついていなかった。
ワークご提供中、私はどなたの顔色も見ずに自分のやれることだけに集中しました。そのことを否定する人は誰もいなかったのに、ワークが終わると、私はとても不安になってしまったのです。
今回のワークでは、何かのセミナーで仕入れたツールではなく、様々な経緯があって100%私の状態だったので、言い訳や誰かやツールのせいにすることが一切できないものでした。100%の自分自身だったからこそ「私のやることは大したことがなくて何の効力もないしむしろ余計なことをしたと責められ否定される」という、押し込めていた怖さが浮いて出てきたのだと思います。
親に関するトラウマは、これまでいくつも取ってきましたが、自分が成長すると、さらに深い部分にアクセスできて、成長の器を広げてくれるものなのでしょう。
もう大丈夫なんだよ、というサインを、痛い形でもらったものの、そこまでしないと気づけなかった私に、見捨てず諦めずに伝え続けてくれた2人には、心底感謝しかありません。
まだすっかり取り払われたわけではないので自らにセラピーを施し、人を考慮しないという練習を続けていく過程で、私の中に新しい脳の回路が出来て安定感をもったクリアリングが完成すると思われます(この件について)。
そうして、「否定される」が前提ではなくなった場合、自己を全開にして自分を生きていくことが可能になり、もし否定されたとしても、否定に対してすらニュートラルになることでしょう。もうそれが見えてきています。
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