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"夜はどこにでも通じているの。世界はつねに夜なのよ"

「二面性」について

人というのは表と裏があり、表の自分にとっての"ウラ"と、裏の自分にとっての"オモテ"は同じに見えて違う。"ウラ"にしてみれば自分こそが表であると主張するし、"オモテ"に言わせれば自分なんて"ウラ"なんだと卑下する。

"ホントウ"の自分を模索しながら思い悩み、誰にも言えない弱さを抱えながら、夜に飛び出す。そして、自分の見てる世界は常に夜なのではないかと、文字通り暗中模索する。

もやっとした怪談を読んだ。なんなら、僕が読んだのは怪談ではないんじゃないかと思うくらいに。狐につままれた気持ちになりながら、これにどういう落としどころを設けて、感想を述べるか難解だなぁと思い、今こうして書いている。

この作品を怪談として読んだ場合に、ネタバレをはらむ内容になるため、記事にし難いという問題がまず浮かぶ。ネタバレというものは忌み嫌われるものだ。極力避けて通りたい最終手段だ。
ということで、僕がこの作品から受け取ったメッセージ「二面性」というところに着眼していきたい。

冒頭にも書いたとおり、人というのは往々して表と裏がある。僕とて、表と裏があった。「障害者」っぽく振舞う自分と「健常者」っぽく振舞う自分だ。健気に殊勝に前向きに生きる自分と、普通であることを理想とする自分が僕の中にはいた。詳しくは連載中の『VR健常者』のなかでその概要を吐露しているので、そちらを読んでもらえると嬉しい。

光と影。S極とN極。天国と地獄。

このように、「対」にして語られるものは世の中に多い。この本では「夜行」と「曙光」という対関係が物語のキーワードだ。これらは全くもって相対しているかというと、そうではない。お互いがお互いを引き出しあい、惹かれあい、最終的には交わらないものなのだ。

コインを想像してほしい。表だろうが裏だろうがコインはコインだ。サイコロを想像してほしい。一の目を出そうが六の目を出そうがサイコロはサイコロだ。

ようするに、対関係にあるものは総体としてみた時にひとつのものであるということだ。

インターネット上に創り上げたモニターの向こうの自分と、記事を書いている自分は違うようでいて同じ人間だ。
どちらが"ホントウ"の自分というわけではない。どちらも自身を形成する上で大切な一面なのだ。

怪談のなかに僕はこの「二面性」というものの本質を垣間見た、良書だ。 

読了した瞬間はもやっとするが、時間を置くと味があるのでおすすめ!

もうひとつの『夜行』

蛇足ではあるが、ヨルシカという僕の好きなアーティストがいる。なんと、ヨルシカも『夜行』という曲を出している。ヨルシカの『夜行』と森見登美彦の『夜行』。共通点があるか僕なりに考えてみた。

君はまだわからないだろうけど、空も言葉で出来てるんだ

これがヨルシカの歌詞だ。確かにこの一文では"空も言葉で出来てる"という意味がよくわからない。

続いて、森見登美彦の『夜行』第四夜にて

言葉に頼らずに相手の顔を見ることできれば、見えぬものがおのずから見えてくるのです。
常日頃はボンヤリと眺めているだけの景色を、ありったけの言葉を尽くして説明しようとしてみるんです。
もはやなんの言葉も出てこなくなるまで、ひたすら風景のために言葉を尽くす。そんなことを続けていると、やがて頭の芯が疲れ切って、ついにはなんの言葉も出てこなくなる。

つまり、ヨルシカの歌詞に置き換えると、君が普段見てる空は空を見てるようで空を見ていない。空を言葉で表しているだけ。君のなかの空というのは言葉で出来ているということになります。ほかにも

さらさら、さらさら
さらさら、さらさら
花風、揺られや一輪草
言葉は何もいらないから

という歌詞があります。ここでも風景描写のあと、言葉について書かれています。言葉はいらない、つまり、『見る』ことの尊さについて語ってるように聞こえます。 

歌詞というのは行間を読むのが楽しいですよね。
考察に正解はないと自分は思ってますが、自分なりの受け止め方でみなさんも『夜行』を感じてみてください。

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