哲学に深入りしないように(小説)
俺は大学の哲学科に入って、初めての夏休みを迎える。
俺が哲学科に入った理由は、まあ、べつに何でも良かったんだが、文学とか歴史とか、美術とか、文化人類学とか、社会学とか、そういった、なんとなく広そうな学問の環境にいれば楽しいかな、などと思って色々な学科を受験して、最初に合格したのが今通っている大学の哲学科だった。それが理由だ。
俺はサークルには入らないことにしていた。とくにそのようなグループに所属して人間関係を作るよりは、自然にできた友達との関係を大事にしようと思ったからだ。その結果、バイト先の何人かと友達になった他は、同じ授業をよく取る哲学科の学生が多かった。なぜかその中に女子はいない。しかし、女子は女子で同じ授業で会うメンバーはだいたい名前と顔が一致している。そのうち仲良くなれるのだろうと思う。
で、俺は夏休みにどこかでバーベキューをしないかと、哲学科の野郎どもに提案しようと思った。もちろんそこに女子も誘うつもりで。
そして、哲学の教室で授業前にさっそく、野郎どもに声を掛けた。野郎どもは俺より早く来て、哲学の話をしていた。
「おい、夏休み、どこかでバーベキューしないか?」
俺がそう言うと、角沢という男は言った。
「そんなことより、自分が何者か言えるようになることが先じゃないかな?」
「は?」
「君は、自分が何者か言えるか?」
「俺は哲学科の学生だ」
「それが君の本質か?」
「え?」
「まさか君は一生哲学科の学生ではあるまい」
「なんだよ、気持ち悪いな。喋り方が古い哲学書の文体になってるぞ」
「文体?君は自分の文体を見つけたのかね?」
「『かね?』とかやめろよ、気持ち悪い」
「君は他者の文体に介入する権利が自分にはあると思っているのかね?」
「だから、『かね?』はいまどき、会話で使わないぞ」
すると、岩崎という男は言った。
「今、角沢君は本質という言葉を使ったね?アリストテレスにおける本質という概念は、例えば、学生の本質は学ぶこと、というようになる。さて、大橋君が提案した、バーベキューだが、それは学生の本質だろうか?」
俺は言う。
「知らねーよ。堅いな。そんなこと言わないで、行こうぜ、女の子誘ってさ」
岩崎は言う。
「君はまるで遊ぶことが学生の本質だと言ってるようだが?」
角沢は言う。
「それは生物としての人間を考えると意外と当たっているかもしれないよ」
岩崎は言う。
「どういうことだい?」
「つまり、生物としての人間を見るならば、女の子と遊ぶということは生殖の一環として必要なことだと思うんだ。つまり、それは人間の本質ではないかな?」
角沢のこの言葉に岩崎は答える。
「じゃあ、君は、人間の本質はセックスだというのかい?」
「う~む、そうではないな。人間は必ずしも生殖のために生きているのではない。それは多くの人たちが証明している」
岩崎は言う。
「ではなんのために私たちは生きているのだろう?」
俺は言う。
「おい、一人称に『私』を使うな。普通の会話でよ。せめて『俺』か『僕』にしろよ」
岩崎は言う。
「さっきから大橋君は人の文体に介入してくるね?」
俺は言う。
「いや、会話で『文体』という言葉を使うのもおかしいぞ」
「たしかに私たちは言葉を使い生きている。つまりロゴスの中を生きていると言っていいだろう。なんのために生きるかという問い自体が、ロゴス的と言える。しかし、このような問いを立てることのできる存在者、この現存在とはどのような事態を指すのだろう?」
角沢は言う。
「岩崎君、現存在というのはハイデガーの用語だと思うが、ここでは普通に『人間』という言葉を使おう」
「なぜだい?私はハイデガーの『存在と時間』を読むと、彼が『現存在』を『人間』という意味で使っているとは思えないんだよ。なぜなら、『人間』と言って済むのならそうするべき所をあえて『現存在』という言葉を使うところに、ポイントはあると思うんだ。つまり、自らの存在を問うことのできる存在者を現存在と言うならば、人間はもちろんそうだけど、もしかしたらイルカやチンパンジーなんかも現存在かもしれない。この定義で言えば、宇宙人も自らの存在を問うことができるならば現存在で我々と同じだと言えるだろう」
角沢は言う。
「では、逆のことは言えないだろうか?つまり、自らの存在を問うことをしない人間は現存在ではないと」
岩崎は言う。
「自らの存在を問わない人間などいないよ」
「セックスのことしか考えない人間は現存在ではないだろう?」
「ああ、なるほど、自らの存在を問うことをメルクマールにして、現存在としての人間か、ただのヒトかが分かれると言うのかな?」
「僕はそうは言っていないよ。僕は今、『セックスのことしか考えない人間』と言ったんだ。『人間』と言っている。つまり、人間の中に現存在とそうでない存在者がいる、そういうことだよ」
「君はなかなかヒューマニストだね、角沢君」
「そうかもしれない。セックスのことしか考えないのも人間、金儲けのことしか考えないのも人間。ただ、自らの問いを問う現存在こそが本当の人間だと思うんだ」
「本当の人間とニセモノの人間がいるということかい?」
「ニセモノではないが、現存在こそが、人間の中でもただの繁殖する生物ではない存在者なのだと思うよ」
俺は言う。
「ようするに角沢はセックスのことだけ考えているのは下等生物だと言いたいのか?」
すると、角沢は鋭い眼で俺を見た。
「君!それはジェノサイドに繋がる言葉だよ」
「え?」
「僕はセックスのことだけ考えているのも人間だと言ったはずだ。でも、現存在とは人間の中でも最も人間らしい存在者なんだ」
俺は言う。
「じゃあ、人間らしい角沢よ。今度、一緒にバーベキューはどうだ?あそこにいる女の子たちを誘ってさ」
俺は教室の反対側でお喋りしている女の子三人を指さした。
角沢は言う。
「しかし、まだ僕は自分は何者か言語化することができない」
「じゃあ、行かないのか?岩崎はどうだ?」
と俺が言うと角沢が言った。
「僕は行かないとは言っていない」
俺はニヤリと笑った。そして岩崎に言った。
「おまえはどうだよ。あそこにいる女の子たち誘ってバーベキュー」
岩崎が言う。
「その答えをするのにいくらか文献に当たる必要がありそうだな」
「じゃあ、行かないんだな?俺は今から彼女たちを誘おうと思うんだけど、岩崎はいないから二対三という風に言うぞ。それともおまえが行くなら、三対三で提案できる」
岩崎は答えた。
「じゃあ、三対三で」
俺はニカッと笑って、女の子たちの方へ近寄って行った。
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