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小説『過去忘れの実』

 亡き妻に捧ぐ。

         *

 私はいま、中伊豆のとある温泉宿でこの文章を書いている。
 近くを川が流れている。


 私は以前、ある小さな文芸雑誌の新人賞を受賞した。
 これから読んでいただく作品はその受賞後、第一作となる。


         *

 まず、私の過去を語らねばならない。


 私は大学時代から小説家になることを夢見るようになった。


 その大学時代に私は恋をした。相手の名前は美佐子という。美佐子は色白で細身の美しい女性だった。
 彼女は私の夢を理解してくれた。私が小説家になることを彼女自身の夢としてくれた。おかげで私は彼女のためにも小説家になるという願いを強くしていった。


 大学を卒業すると、私たちはすぐに結婚した。カネがなかったので家族だけの慎ましやかな結婚式を挙げた。新婚旅行は伊豆だった。いま、この文章を書いている、この温泉宿に二泊した。

 美佐子は会社に勤めた。
 私はアルバイトをしながら自分の文学を磨いていった。何度も雑誌の新人賞に応募しては落選した。子供は作らなかった。ふたりが生活していくだけで精いっぱいだった。小説家になれたら子供を作るつもりだった。


 しかし、私がまだ小説家になれぬまま、私たちが二十五歳のときに美佐子は身ごもった。
 経済的には厳しかったが、美佐子が「産みたい」と言ったので、産ませることにした。


          *

 ここで私は悲しくなったので、思い出話をいったん休め、近所の川へ散歩に出かけようと思う。お許しいただきたい。


 清流は私が美佐子と新婚旅行に来たときと同じように流れている。
 私は石の上に座ってじっと流れを見つめる。周りの山々からは蝉の鳴く声が聞こえる。
 川ではひとりの女の子が水浴びをしている。
 その女の子が私のところへやって来て、
「おじさん、どこから来たの?」
と言うので、私は、
「東京だよ」
と答える。私は、もしあの子が生まれていたらこの子ぐらいの歳だろうな、と思いつつ、
「君はどこの子?」
と尋ねる。すると少女は、
「おじさんの泊っている宿の子だよ」
と言う。そうか、私は彼女をどこかで見た覚えがあると思っていたが、私の泊っている宿で見かけたのだった。


 私は少女と話したら、文章を書き進める元気が出てきたので、宿の自室に帰った。


         *

 美佐子は身ごもったまま、交通事故で死んだ。おなかの子も死んだ。


 葬式は簡素なものだった。美佐子の勤めていた会社の同僚や家族、親戚が来てくれたが、至って地味なものだった。それはまるで美佐子の人生が地味で不幸なものだったかのようだった。


 美佐子は物静かな女だった。ある人から見れば彼女は地味な女だったかもしれないが、私はそんな彼女の物静かなところが好きだった。
 美佐子はけっして暗いわけではなかった。ただ、口数が少ないので地味に思われがちだった。


 私の「小説家になりたい」という夢を、美佐子は共に分かち合ってくれた。
 だが、その夢を実現させる前に美佐子は子供と共に他界してしまった。


 私は彼女を失って初めて、夢より大切なものがあることを知った。私は美佐子と暮らした何年かのあいだ、とても幸せだった。


 私は美佐子との思い出を題材にして小説を書いた。そして、ある小さな文芸誌の新人賞を受賞した。自分の身の回りのことを題材にしたのは、この小説が初めてだった。
 だが、それ以降、小説が書けなくなった。


 こうしていま、この文章を書いているが、これが新人賞以来、初めての作品だ。
 また、美佐子のことを書いているが、私は美佐子のことしか書けないようだ。少なくとも現在の段階では。


          *

 美佐子のことを書いていると、私は泣き出してしまいそうになるので、ここで再び筆を置いて、散歩に出かけようと思う。


 そういえば、新婚旅行のとき、美佐子とこの清流の河原を歩いたものだ。
 私はさっき座った石にもう一度腰かけ、きらきら光る流れを見つめた。さっきの女の子はもういない。私ひとりきりだ。


 私が流れを見つめていると、対岸の林の中から私を呼ぶ女がいる。死に装束を身につけた美佐子だ。
「こっちへ来て、とても大切なものがあるの」
私は彼女の声に導かれるまま川を渡り対岸に着いた。
美佐子が、
「こっちへ来て」
と言いながら軽やかに林の中を歩いて行くので私はそれについていった。美佐子が幽霊であることは私にはわかっていた。しかし、たとえ幽霊であっても彼女に会えたことは私にとって喜びだった。このままあの世まで行くのだとしてもかまわない、と思った。


 どれだけ歩いただろうか。ずいぶん森の中へ来てしまった。そして、美佐子に導かれて少しひらけた所に出た。周りには鬱蒼とした森がある。広場の中央に一本の木が立っている。美佐子はその木の下へ行き、
「ここに来て」
と言う。私はそれに従う。美佐子は言う。
「私はあなたのことが忘れられなかったために天国へ行けなかったの」
「じゃあ、地獄に落ちたの?」
「いいえ、ずっとこの森であなたを待っていました」
「僕を?ずっと?」
「ええ、でも寂しくなんかなかったわ。だって私はあなたと過ごした思い出があったから。あなたとの幸せな日々を思い出すのはとても楽しいことなのよ」
「僕だってそうさ。美佐子のことばかり考えて過ごしているよ、いまも」
「私のこと、忘れられない?他の女性を好きになれない?」
「うん、僕はいまでも君を愛してる。他の女性を好きになるなんて考えられないよ」
「私はあなたに私のことを忘れてほしい。そして、他の女性と幸せになってほしい」
「無理だよ。そんなの」
「あなたが私を忘れないかぎり、あなたは幸せになれない。そして、私もあなたのことを忘れないかぎり、天国へは行けないの」
「そんな・・・」
「見て、この木を、そして、この木の実を」
「これがなんなの?」
「これは『過去忘れの実』といって、これを食べれば過去のことを全部忘れることができるの」
「全部?忘れる?」
美佐子は木の枝から二つ実を採り、ひとつを私に渡した。
「これを食べてあなたは新しい人生を始めて。私はこれを食べて天国へ行くから」
それから美佐子は最後に言った。
「私はあなたに出会えて本当に幸せでした」
そう言うと美佐子は木の実を口に入れ、コリッと噛んで飲み込んだ。すると彼女の体は無数の光の粒となり、きらきらと光りながら消えてしまった。


          *

 気がつくと私は先ほどと同じように石に腰かけ、きらきら光る清流の水面みなもを見つめていた。
 しかし、私の手の中には美佐子のくれた木の実が握られていた。
「おじさん」
宿の女の子が私の顔を覗き込んできた。私は、
「なんだい?」
と言うと、
「なんでもない」
と笑って、彼女は水辺のほうへ行ってしまった。
 私は宿へ戻ることにした。


 部屋に戻ると私は机に向かって文章を書き始めた。机の上には、あの「過去忘れの実」が置いてある。

 (了)

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