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Re: 【短編小説】住宅展示場のシミ

「別れよ」
 三つ目の住宅展示場を出たところで彼女は唐突に言った。
 豆鉄砲を食った鳩の顔をした俺に向かって彼女は続ける。
「わたし、耐えられそうにない」
 そうか。わからん。
 彼女の生理でも始まったかと思ったが、それは来週くらいのはずだ。別に今日だって何か気に触る様な事があったとは思えない。

 俺は混乱をマネージメントするべく軽い深呼吸をしてから、できるだけ低い声で、ゆっくりと
「待てよ、急に何なんだよ」
 と言って笑いかけた。
 しかし彼女は俺を身もせずに
「良かった、住宅展示場デートに来て。あなたって人が本当に良く分かったの」
「なんだって?俺の何が分かったって?」
 そう言い放つと靴を履いて立ち上がった。

 俺もゴム底の薄くなったスニーカーをひっかけて展示住宅街を出た。
 秋晴れの空は高く、その明るい薄青緑色の中に吸い上げられてしまいそうな気がした。
 台風一過の太陽は半熟卵みたいに濃い色をしていて、11月を目前にして何度目かの真夏日だった。

 先に展示住宅を出た彼女はブラウスのボタンをひとつ外してパタパタと扇ぎながら全身に風を送り込んだ。
 俺は彼女の汗ばんだ背中に張りついたブラウスに透けたブラジャーが、初めて見るものか分からないことに気づいた。
 彼女は俺にその背中を向けたまま
「あなたと生活が合いそうに無いってこと」とこちらを見もせずに吐き捨てた。

 
「なんだよ、何が分かったって言うんだよ」
 同じ質問を繰り返す自分が馬鹿になった様な気分になる。
 実際、たぶん馬鹿になっている。
 会話を成立させられていない。

 振り向いた彼女はうんざりした顔をしていて、その目は人形のボタンみたいな光り方をした。
「だって和室より洋室の方がテンション上がってたじゃない」
 無機質なボタンはどこを見ているのか分からなかった。俺はそのボタンの真ん中にある眉間を見ながら
「それはそうだろう、明治から昭和にかけて建てられたあの感じ、たまらないし」
 と言った。
 少し冷たい風が吹いて、やはり今は秋口なのだと思い知る。

 彼女はまるで一方通行のAI音声みたいに言った。
「日当たりとか風通しとか全然興味無かったじゃん」
「それはだって、ここは展示場だし実際に建てる時はまた別の検討が必要だろ」
「それに畳の縁を踏んでたの、信じられない」
「は?」
「畳の縁」

 建築科の大学生が撮るカメラのシャッターと、はしゃぎ回る子供たちの声が耳をからかう。
 そして半熟の陽射しと冷たい風がかき回す展示公園の広場で俺は棒立ちになってこの半日を思い返す。


 彼女はブラウスを扇ぐ手も止めて、心底呆れた様にこちらを見ながら言った。
「畳の縁は踏むし、お昼だってそうよ。出されたご飯は味噌汁より先におかずから食べるし。スープの時だってそう、スプーン使わないし音立てるし」
 確かに畳の縁なんて気にした事が無かったし、食べる順番だって考えた事が無かった。
 それが育ちの悪さだと言うなら仕方ない。
 確かに上品さとは縁のない家だったかも知れない。
 でもそれならそうと言ってくれたら良かったのに。

「悪かったよ、気をつける。反省したよ、だから別れるなんてのはちょっと性急過ぎじゃないのか」
 こんなにも情けない自分がいるのか、と思うほどにか細く弱々しい声で伺う。
 執着していた。
 俺の育ちも両親の教育も否定されたんだから怒りだって湧きこうなものなのにと、どこかで冷静に思う自分もいた。

「ごめん、もう無理」
 彼女は目の前に吊るされた蜘蛛糸の先にある海老を咥えると、そのまま天高く吊り上げられていった。
 見上げた先には秘密隠れ巨乳のお釈迦さまがいて、糸を引く陰茎と陰唇から垂れた釣り針で救いを差し伸べていた。


 俺は釣り上げられていく彼女が履いているスカートの隙間に見えたパンツのシミを見ながら、俺もきっと今の部屋で同じ形に広がっていくのだろうと思った。

「いずれにせよ洗えば落ちるしね」
 俺は肩をすくめて笑い、帰りにカレーうどんでも食べて行こうと思った。
 もう彼女の顔や声も思い出せなかった。
 どうやら薬の効き目もここまでだ。それとも買った記憶か、または映画の一場面か。
 俺は俺が誰なのか良く分からないままだ。
「思い切りすすって、店中にジャクソンポロックをしてやりますよ」
 それが自分の声なのか分からない。
 俺は俺の声が思い出せなかった。

 そして俺は釣られていく女をよそに、展示公園を出た。
 ちょうど良い。
 蕎麦もラーメンも啜って食べられない女とは別れようと思ってたんだ。
 俺は目の前にあった食堂に入る。
 右から三列目、奥から二つ目の椅子に座る。俺はブラウン管に映るプロ野球とパラダイスチャンネルをザッピングする。
 注文はカレーうどんだ。

「音のない前戯も正常位だけなのも飽き飽きしてたんだ」
 出汁で溶いたカレーを飛ばしながら言うと、店の大将はシミのひとつひとつを拭きながら
「まぁ、向こうでは全部やってまさぁな」
 と言うので、俺はジーンズに涙を溢した。


 シミは何度洗っても落ちなかった。
 

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にじむラ
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