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Re: 【短編小説】細い光
「───」
何か言われて振り向くと、玄関先にいる恋人がベランダで煙草を吸っている俺の方を見ていた。
「何か言った?」
「早く行こうよ」
俺はまだ半分ほど残っている煙草を見てから、すぐ行くと返事をした。
全ての荷物が運び出されて何も無くなったこの部屋にも、まだ俺と彼女で過ごした時間が残っていた。
それもいつか忘れてしまうのだろうか。
燃え尽きた灰が落ちて、裸の足先に少し暖かく柔らかい感触を与えた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
ひと通り室内を紹介し終えた不動産屋は、よく訓練された営業スマイルを保持したままで
「つかぬ事を伺いますが、御手洗様は小まめな性格でしょうか?」
と俺に向かって訊いた。
──小まめ。
だとは思わない。
どちからと言えばズボラであり、いい加減でだらしなく怠惰である。
実際に、いまの部屋があまりにも散らかってしまい片付けるのが面倒になった。
しかしこれを自らどうにかするのはとても現実的とは思えないので、清掃業社を呼ぶのと同時に引っ越しを……と考えてのことだった。
たかが不動産屋の営業にそこまで立ち入った話をするつもりは無い。
しかし咄嗟に「几帳面です」と嘘もつけずにいると、不動産屋はその訓練された営業スマイルのまま
「実は、この部屋ってあまり几帳面だったり小まめな方にはあまりお勧めしていないんですよ」と言った。
──小まめには勧めない。
店子があまりいい加減では困ると言う貸主の意向ならまだ分かる。
が、小まめには向かない部屋。
俺が不思議そうな顔をしているのを見た不動産屋は、顔面神経痛にも似てきた営業スマイルで
「はい、とは言ってもゴミ出しなどの事ではありません」
そこら辺はしっかりして頂きたいです、と笑う。
そうなると、風呂の時間とか洗濯の時間だとかですかと尋ねるが不動産屋は首を横に振る。
そう言うことではありません、どちらかと言えば戸締まりの類ですと答えた。
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まだ煙草を吸っている俺にしびれを切らせたのか、恋人はドアを開けて出て行ってしまった。
鉄のドアがガチャリと深刻な音を立てて閉じる。一瞬だけ吹き抜けた風が、部屋に残っていた二人の生活臭を微かに匂わせた。
ベランダの真下にある駐車場にたどり着いた恋人は、ちらりとこちらを見上げて笑った様に見えた。
本当はしかめ面を作ったのかも知れない。
「いま行くよ」
俺は空き缶に煙草を押し込んだ。
振り向いて、この部屋で彼女と過ごした時間について少し考えようと思ったけれど、壁や天井のシミひとつひとつに何かが思い出される気がしたので、時間がいくらあっても足りない。
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「それでは、お客さまの新生活が……」
よく訓練された営業スマイルの不動産屋は、俺に鍵を渡した後も形状記憶のスマイルを崩さず、いくつかの定型挨拶を発すると部屋を出て行った。
俺はそれを確認してからベランダに向かい、戸袋の中にいた彼女をそっと取り出した。
彼女は嬉しそうに微笑む。
確かに、小まめに雨戸を開け閉めする人間には向かない部屋かも知れない。
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気がつくと俺は薄暗い戸袋の中からベランダを見ていた。縦長に薄く光が差し込んでいる。
「ああ、やっちゃったね」
いつのまにか戻った恋人が戸袋にするりと入り込んで笑った。
「ずっと一緒だ」
俺も笑う。
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おれは営業スマイルを貼り付けた営業が帰った後、部屋のどこにどの家具を置くかなんて事をぼんやりと考えていた。
そう言えば、あまり雨戸を開け閉めしない方がいいなんてことを言っていたけれど、あれは何だったんだろう。
不思議に思ってベランダの戸袋を覗き込むと、そこには年老いた男女とひとりの若く美しい女がいた。
三人の奥には年齢もわからない大勢の男女がこちらをじっと見ており、おれはその視線に動かされるように戸袋から若い女を取り出した。
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