【小説】うそつき
昼間なのに誰もいない商店街を、わたしは夫と二人で歩いていた。
どのお店もシャッターを開けているのに、お店の中にも通りにも人がいない。
これは夢だと、すぐに気づいた。
「昔のことばかり思い出すの」
他愛のない話をしながら、それでも違和感のある夢に気づかないふりをする。
気づいてしまえば、よくない事が起こる気がしたのだ。
「人間は過去を見つめながら後ろ向きに歩くんだよ」
そう言って急に立ち止まった夫は、実際に後ろ歩きを始めた。
そうして頭の後ろに手を回すと、「ほら」とわたしに桃を差し出した。
「どこから出したの?」
「おれの、明日かなぁ」
夫は首を傾げながら、わかっているような、わかっていないような顔で「でもまぁ、きみにあげるよ」と言って、優しく微笑んだ。
目覚ましが鳴る前に、まぶたが勝手に開いた。
むかしは朝に弱くて目覚まし時計をいくつもセットしていたのにと恨めしく思う。
枕元に置いた水を飲んでキッチンに立つ。
換気扇から入り込もうとする残暑を追い払うように、ごうごうと冷たい風を送り込むエアコンが恨めしそうにわたしを見ている気がする。
ごめんね、動かしっぱなしで。
そんなことを考えながらトントンと葱を刻む感じで、なんとなく今日のわたしは調子が良さそうだと言う予感を味わっていた。
「おはよう」
背後から眠たげな声が聞こえて振り向くと、酷い寝癖を立てた夫があくびをしながら立っていた。
目の下に薄っすらとくまができている。
「おはよう。どうしたの?あまり眠れなかった?」
湯呑に冷たい麦茶を注いで出すと、夫は一息に飲み干した。
「うん、なんだかね」
疲れてんのかな。
そう言うと、夫は再び大きなあくびをしながら風呂場に消えていった。
米の炊き上がるタイミングを見計らって、味噌汁の鍋に刻んだ葱を入れる。
きっとシャワーから出てくる頃には、グリルの魚もちょうど焼けるだろう。
夫は味噌汁をすすり、目刺しをかじり、漬物をかじり、米を二、三口食べた辺りで箸を置いた。
「あんまり食欲ない?」
「ちょっとね」
申し訳なさそうな顔をする夫に、昨夜本人が買ってきた桃なら食べらるか訊いてみた。
「あぁ、そうしよう」
食べたい、夫は笑って頷いた。
「そう言えばどこで買ったの?これ」
冷蔵庫で冷やされていた桃は、すこし小ぶりだけど綺麗な果実だった。なんていう品種なのだろう?
「駅前にね、珍しくリヤカーで売っていてね」
訊けば品種は書いていなかったと夫は言った。
「もしかしたらニュースで見る盗品かもと思ったけど、売ってたのがお爺さんでさ」
夫はそう言いながら切り分けた桃をひとつ食べて、美味しそうに微笑んだ。
「どう?」
わたしが感想を訊くと、夫は手ぶりで早く食べてみてと言う。
わたしもひとつ食べる。口の中に瑞々しく甘い桃の香りが広がった。
じゅわりと、その桃が全身に行き渡る、そんな感じがしてわたしも夫に笑いかけた。
玄関先で夫を見送り、皿を洗った後でシャワーを浴びた。
この瞬間はいつもうんざりする。
どれだけスキンケアをしたところで、むかし程の水弾きはない。疲れやすくなっている気もする。眠りが浅いのも夢見が悪いのもそのせいだろうか。
暗い気持ちになるので浴室の鏡もあまり見ないようにしている。
洗面所でもなるべく手短に簡単な化粧をして手早く服を着るが、それでも玄関の姿見に写った自分を見てしまう。
「いつまでこう言うの着ていいのかな」
どんな服装だろうと、別に社会が許さない訳じゃない。
ただ、自分は許せないのだ。
「でも、昨日よりは少し良くない?」
肌にハイライトが入っているように見える。
独り言。
でも仮に猫を飼っていたところで、答えてくれたりはしないだろう。
ふふん、と鼻で笑って買い物に出た。
「ただいま」
夫がビニール袋をリビングの机に置いたビニール袋から、桃の香りが漂う。
「また買ってきたの?」
「うん、美味しかったからさ」
夫はネクタイを緩めながら笑ったけれど、充血した目は早く眠りたさそうだった。
昨夜はあまり眠れなかったみたいだし、好きにさせようと思ってそれ以上は訊かないことにした。
「どう?晩御飯は食べられそう?」
「うん、お腹空いたよ」
朝食の残りに加えて新たに作った付け合わせを食べながら、夫は駅前で桃を売っていたと言う老人の話を始めた。
「変なお爺さんでさ、見た目なんか中国の映画に出てくる老師とか仙人みたいなんだよ。白い髭がこんなに長くて、詰襟みたいな服着ててさ」
夫は時折り短い溜息をつきながら、無理に飲み込むように食事を続けた。
「それ、やっぱり怪しくない?」
何も訊くまいと決めて、話の続きを促した。
「怪しいんだけどさ、そこまで怪しいと逆に信用できるっていうか」
下手に若い奴だと怖いじゃん、と言って夫は笑う。
「それでさ、その爺さん、話も面白くてさ」
何でもアダムとイヴが食べたのは桃だとか、それは可能性の暗喩で、だから全てを司る神の怒りを買ったとか言う話だった。
「そう考えるとさ、桃太郎だってそうなのかもね」
どうにか夕餉を食べ終えた夫がお茶を飲みながら、続ける。
「あれは老夫婦が若返ったんじゃなくて、希望を無くして老け込んでしまった二人が可能性と言う未来を取り戻したってことなんだよ」
そう言うと夫は、明日の朝は桃にチーズを載せて食べようねとご機嫌に笑って立ち上がり、食器棚から酒瓶を取り出して訊いた。
「一緒に飲む?」
きっとわたしも笑っていたんだと思う。
夫が酒を飲もうだなんて、珍しいこともあるものだ。
でも、一緒に飲めるのは嬉しかった。
翌朝も夫は「あまり眠れなかったよ」と力なく笑いながら起きてきた。
「下戸なんだから飲むもんじゃないな」
わたしが差し出した麦茶を一息に飲むと、目をこすりながら麦茶をもう一杯飲むか逡巡しているように見えた。
「でも、久しぶりに一緒に飲めてわたしは楽しかったよ」
「そっか。なら、たまにはいいかもな」
もう一杯麦茶を飲んだ夫はシャワーを浴びに向かった。
その背中に「でも酔ってすぐに寝ちゃうのは寂しいよ」と呟いたけれど、あんまり飲まないから、わたしも弱くなってるのは知っている。
酒で誤魔化すのも、限界がある。
切った桃にチーズを載せて出すと、夫はフォークでひとつ刺して嬉しそうに食べた。
「美味しいねぇ」
わたしも夫にならってフォークで桃とチーズを刺して頬張る。
とても合う。
まるで楊貴妃にでもなったかのような気分になる味だった。
「朝からこんな贅沢して良いの?って言う気分になるわね」
思わず興奮気味に言うと
「構わないさ」
夫はそう言って笑った。
でも皿にはまだ桃とチーズが残っている。
「残り、食べられる?」
わたしが頷くと、夫は満足そうに頷いて出勤していった。
その背中は昨日より疲れて見えた。
どこか悪いのだろうか。でも、訊いたところできっと素直に答えないだろう。
夫はひと回りも歳上なのだから、疲れやすいだとか頻度が少ないだとかは分かる。
「……んっ」
シャワーを浴びながら自分を慰めた。
鈍い快感が背骨を走り、乱れた呼吸がお湯に溶けて流されていく。
桃の効果だろうか、昨日よりも肌の水弾きが良い気がする。
恐る恐る鏡を覗くと、目尻の小皺も減っている気がするし肌のハリも良くなっているように見える。
「……まさかね!」
でも、今日は昨日より、良い。
その日も夫は桃を買って帰ってきた。
次の日も、そのまた次の日も夫は桃を買ってきた。
わたしは毎朝シャワーを浴びながら自分を慰めたり肌や顔を確認する。
昨日より今日。
今日より明日。
今日も夫は桃を買ってくるだろう。
そして夫は昨日よりも一昨日よりも疲れた顔で嬉しそうに笑う。
「きょうも買ってきたの?」
夫は笑う。
しわくちゃの顔で、深いくまのある目で、白いものが目立ち始めた髪で、あまり食べられずに細くなった身体で、笑う。
それでもわたしは、その桃を食べずにはいられなかった。
もう少しで、前を向いて歩けそうな気がする。
自分で自分を許して歩けそうな、そんな気がするのだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
夫は頭の後ろに手を回して桃を取り出すと
「きみにあげるよ」
と言った。
わたしは首を振った。
「さみしいだけだから、いらない」
夫は少し驚いた顔をしたけれど、わたしを抱きしめるともう一度「ただいま」と言った。
わたしは夫の後頭部に生えた桃に手を伸ばして、そっと撫でた。