Re:【小説】オッドタクシー
久しぶりの電車通勤は酷く疲れる。
おれは弾き出されるように電車から転がり出てホームを歩く。エスカレーターだとかリフトで会社から家まで運んでくれないだろうかと思う。
それにしてもウンザリする。
労働に対する嫌悪感の殆どが通退勤にあるはずだが、会社の近くに住みたいとは思えない。やはり労働そのものがクソだと言わざるをえない。
帰宅すると妻がエプロンで手を拭いながら駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、あなた。仕事はどうでした?」
どうやら今日の晩飯はグリーンカレーらしい。バターチキンではなかったことにホッとする。
「あぁ、ウンザリだ」
なんだってヒヨコ選別の仕事なんかしてるんだ?ほかに無かったのか?あの無口な男は選別しながらなんて言ったと思う?
「仕事を教えてくれたんじゃなくて?」
仕事だって?
食べたいな、と思ったらメス。そう言ったんだよ、ヒヨコを鼻に近づけて匂いを嗅ぐんだ。そうして「食べたいな、そう思ったら、メス」って言ったんだ。
妻は不思議そうな顔をしておれに訊いた。
「ちなみにオスは食べたくないとか?」
よく訊いてくれた。
おれもそれが気になって質問したんだ。そうしたら同じように匂いを嗅いで「オスは、食べごろだな、と思ったらだよ」だとさ。
冗談じゃない。
さっさと昇級してブロイラーの管理係にでもならないとやっていられない。その次はブリーダー、さらにその次は……いや、この業界は狭い。転職をしよう。
それにしても労働はクソだ。
だが自営業をやる気力も体力もない。賃労働と資本、その車輪の下で生きてやるさ。
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職場の先輩に誘われて付いて行った先は場末のスナックであった。
思ったより広い店内は薄暗く、すでに何人かの酔客がコントロールの効かない笑い声をあげてはしゃぎ倒していた。
先輩は慣れた様子でボックス席に腰掛けた。おれもそれに倣ってスツールに腰をおろす。自分の部屋に置いた安物のソファより上等だろうが、座り潰されてクッションは死んでいた。
「いらっしゃい」
やたら明るい声で挨拶をしながら、スナックのママと思しき熟年女性が熱すぎるおしぼりを渡してきた。
店名がこの女性の名前であり、そこらへんにいる地元ヤクザか何かの情婦だったんだろうなどと考えた。声に出さなかっただけで成長したと思う。
熱いおしぼりで顔を拭いていると、両隣に女が座る気配がした。
他の酔客の声が聞こえない。帰ったのだろう。
「何か頼んでいい?」
先輩の方に顔を向けると赤い顔で頷いていた。
「でね、この間ちょっと怖いことがあってさ」
先輩の横に座った女が話を始めた。
曰く、少し前に帰宅途中で変な男と会った。見知らぬ男は酔漢だとか徘徊老人と言う風ではなく、また物取りだとかでも無さそうだった。
「露出狂とかでも無かったの?」
先輩は興味なさそうに合いの手を入れながら、逆隣に座っている女の膝を撫でていた。
水商売の女の膝が綺麗なのは、ああやって色んな酔客に撫でられているからかも知らない。
女が言うには、その男は露出狂などでもなく単なる不審者であったらしい。
女の後を付けたものの、何もしなかったと言うことだ。
「え?そのまま家に帰ったの?」
「まさか!家まで来られるのイヤだから途中でコンビニに入ったのよ。そうしたらしばらくは店の前をウロウロしてたんだけど、何か入って来そうだったから棚に隠れて」
入れ違いになるようにコンビニから出たの、と言って女は薄いウーロンハイを飲んだ。
あの時は上手く巻かれたな、と思ったが声に出さなかったのは成長したと褒めて欲しい。
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退屈な飲み会の話題も尽きてきて、いつも通りの床屋談義が始まろうとしていた。
「まったく、いつになったらあの新聞は風評加害をやめるんだ」
「不動産屋の学級新聞だからな」
下手なジャーナリスト精神さえ発揮しなけりゃいいのに、と言って笑う。
全くだ、やっている事は戦前と変わらない。
「鼻血が出るだの県民が青く光るだのとありもしない事を」
おかげさまで親父の地元はいつまで経っても妙な差別と偏見で遠巻きに観察されて厭な気分だとみんなが言っている。
「青く光る方はさすがにチェルノブイリだけでは」
「そのチェルノブイリってのも今じゃチョルノービルって言うらしいな」
正しさが何かは知らないが、それなら本邦もジャパンではなくニッポンを主張するべきだろうか。
「あぁ、確かに。グルジアとジョージアとか」
「フクシマとファッカスマとか」
「そんな呼び方しねぇよジャッカスかよ」
アメリカ人とドイツ人とフランス人の見分けはつかないし、奴らのジョークやイヤミに差があるとは思えない。
白い奴らはどれだってクソだ。
ツラの皮が厚い。
「あの学級新聞屋も同じだな」
話題が尽きて解散した飲み会だった。
次にその店を訪れるとおれたちは出禁になっていた。
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「まぁ、お客さん達から聞いた話って言うとこんなところですけど」
運転手は申し訳なさそうに言った。
そうかい、ありがとう。
少なくとも何日かは書くネタに困らなさそうだよ。
「お役に立てたんなら何よりです」
運転手は左手で帽子のツバを摘んで軽く挨拶をした。おれも右手を上げて制する。
「いや、本当だって。迷惑だったろ、なんか変な話を知らないかって」
こういう事訊くと厭な貌する運転手さんもいるしね、そりゃ迷惑だよな。旨いメシ屋とか怖い話とか、なんでも知ってる訳じゃねぇ。
「大丈夫ですよ、私は喋るの好きな方なんで」
そうか、そいつは良かった。
おれはおたくがヤクザを乗せたとか風俗嬢を乗せてたとか、そんな話が聞きたかったがまぁいい。何だっていいと言ったのはおれだ。
できれば怪談みたいなのがよかったが、そうもいかないよな。怪談なんてそうそう体験できるもんじゃない。
「そうでしたか」
運転手は少し残念そうな声だった。
いいんだ、おれの勝手に付き合ってくれてありがとう。助かったよ、毎日何かを書くなんてのは正気の沙汰じゃない。そう思うだろ?
「いえ、何かを毎日成し遂げるのは大変ですよ」
そうか?運転手さんがそう思うなら、そうなんだろう。
ところでここは何処だい?
「……」
運転手は黙って前を見ていた。
両手はハンドルから離されている。何をしてるんだ?両手を前で垂らしているが何の冗談だ。おい、ブレーキを踏……足がないぞ。おい、どうやって前に。