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Re: 【短編小説】おやすみcotton100%

 我が輩は武士である。名前はあってないようなものだ。
 深夜二時。賃労働として暗闇の中を歩いている。ダムを照らす手提げ餓死悪髑髏の眼(眼?眼窩と言った気がする)から発せられる光が我が輩をぼんやりと照らしている。
 その薄明かりの中を歩くのが我が輩の仕事だ。自宅警備員から転職して就いた仕事が夜間警備員である。生活時間帯がそのままなのは助かる。
 我が輩たちの仕事は、このダムを破壊しようとするテロ組織「蟻の穴団」の発見と摘発、及び破壊行為の防止や阻止が目的である。



 歴史小説ではこうやってフラフラしている男は何故か美青年だったり男前だったりするが、こうしてダム警備のバイトをしている我が輩は良く見ても十人並の武士だ。
 髭だって月代だって綺麗にしているが、それが報われたりはしない。現実とはそんなものだ。
 そろそろT字の髭剃りから電動シェーバーにするべきか迷っているうちに三十路を歩き終えそうである。

 電動シェーバーが、欲しい。

 深夜手当を含めて時給が1580円。それが8時間。今晩だけで12,640円。まぁ悪く無いが、今月は最低でもあと10日は働かないと各種の支払いが危うい。
 こうやって時給を計算しながら送る生活と言うのは、出席日数を気にしながら送る学生生活に似ている。
 しかし決定的に違うのは温情だとかが通用しない点だ。教師と違い、支払いに猶予などはない。


 そんな事を考えながら煙管を吸い込むと、煙と一緒に刻み煙草まで口に入ってきたので勢いよく唾を吐いた。
 栄光への架け橋より美しい放物線を描いて飛んだ唾が草むらに消えると
「冷たっ」
 と言う声が聞こえた。


 餓死悪髑髏を向けた先が照らされる。
 そこにはひとりの街娘がしゃがみ込んでいた。
「誰か!?」
 我が輩は腰の物に手を掛けて訊いた。
 馬券の質草にしてしまったので真剣では無く竹光だが仕方ない。ハッタリにはなるだろう。頼む、抜かせないでくれ。

 しゃがみ込んでいる街娘の手に光るスプーンを認めて更に問う。此奴、まさか……。
「お前、ここで何をしている」
「あれ、お客さんじゃね?」
 街娘が声を上げた。
 おや、と思いよく見れば馴染みの茶店の看板娘である。
「こんな時間にここで何をしている」
「お客さんこそ何してんの?ウケる、あ深夜バイト?マ?」
 不審な娘を見て跳ね上がった心拍は、別の意味で高いBPMを保ったままだった。

 しかし問題である。
 この娘、手にスプーンを持っていた。そのスプーンでダムを掘っていたと言うことは、蟻の穴団と見て間違いない。
 こんな街娘が本当にスプーンでダムを破壊する蟻の穴団なのか、と思ったが仕事なので仕方ない。
 詰所まで連れて帰らねばならぬが、知り合いとなると我が輩も取り調べなどありそうで思いやられる。

 詰所に誰かいるのか。
 誰もいないなら、この娘を思うままに……
 

 
 ヘラヘラと笑う街娘に再び詰問しようとすると街娘が口を開いた。
「ってかお客さんの服いつも気になってたんだけど、それ若冲?だっけ?ジャクソン?寂聴はお坊さんか、だよね?」
 我が輩の一張羅がどうしたと言うのだ。
「お客さんオタクっぽいなーと思って。や、あーしもオタクだし」
「は?」
「や、あーしも解体新書とか全巻持ってんしオタク仲間だと思って。あ、あ客さん武士なんだよね?じょあタケシって呼んでい?タケシ」

 勝手に話が進んでいく。
 街娘はいつもこうだ!!自分勝手に話をして、自己完結して、我が輩が何か言う頃にはそんな話題があった事すら忘れている!!


「我が輩の名は」
 そう言いかけて我が輩の名前が何であるか曖昧な生活を長らく送っているなと思って少し涙が出そうになった。
 もうタケシでいいかも知れない。
 呼んでくれ、好きな呼び名で。我が輩の名前を、呼んで欲しいのだ。
「んー、俺の名は。んー、んー、んー」
「いやタケシっしょ、さっき言ったじゃん」
 やってしまった!
 もう名前の話題は終わっていたのだ!


 街娘は既に退屈し始めたのか、手にしていたスプーンで再びコンクリートを削り始めた。
 こう言う時に殴れる男がモテるんだろうなと思うが我が輩には殴れないし、空気の流れを作り直す鉄板ネタも無いし強いハートも無い。

 名前も曖昧だし話題は終わってるし気の利いた事も言えないし殴って狼藉を働くこともできない。
 自分の情けなさに落ち込んでいると、街娘が我が輩を見てまた笑った。
「ってかなに、タケシちょー落ちてんじゃん、ウケるんだけど」
 何がウケるのか。我が輩の悲しそうな顔がそんなに楽しいのか。


 街娘は笑いながらスプーンでカリカリと堤防を削る。
 我が輩はと言えば、穴を掘る街娘の頸や胸元に見えるタトゥーに興奮したり、それがどの男の影響かと考えて泣きそうになっていた。
 そりゃあ処女のはずが無いのだ。


「そうでないなら全員が娼婦だ」
 そう呟くと街娘が我が輩をみて「え、なんて?タケシ声小せえからウケる」と言った。
 街娘がスプーンを放り投げた様子から察するに、堤防に蟻の穴を空ける事には成功したのかも知れない。
 するすると絹が擦れるような音が聞こえた。
 足元が微かに揺れている気もする。

 ダムの決壊が始まろうとしていた。


 我が輩は崩れゆく堤防に足を取られながら街娘に手を伸ばした。
 しかし街娘は我が輩の伸ばした手には気づきもせず、両の手を黒々とした翅に変えると「じゃーねタケシ」と言って微笑んだ。
 素敵な笑窪だ。八重歯もいい。
 絶対に我が輩の事なんか好きにならない感じがするところも安心して好きになれる。
 街娘が飛び立つとき、ふわりと街娘の香りが漂った。

 君のことが好きだ。
 本当なら玄白の本について話をしたり、若冲の個展を一緒に観に行ったりしたいし、その後はカフェで感想戦をやりたい。
 君がいたら我が輩も絵売りアンに声をかけられたりもしないだろうし、職務質問だって受けたりしないに決まっている。

 やがて洪水が夜の闇の色を纏いながら街に流れ込んで行く。
 もう街娘の匂いはしない。
「あーしタケシのこと嫌いじゃないよ」
 死ぬ前に見る走馬灯を無理矢理に書き換えてこれだから情けなくなるが、もう間に合わない。
 我が輩は……。

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