Re: 【短編小説】DR
ビープビープ、電子音が鳴る。
シュコーシュコー、呼吸器が動く。
おれたちは息をひそめる。生と死の間。世見返り、廓、病院。
そうだ。
お茶の水にある大学病院で、すっかり茶色くなった祖父は白いベッドに寝ていた。
白衣を着た医者が何かを説明しているが別におれたちに理解をさせようとかは考えていないし、その医者の後ろにいる研修医は立ったまま居眠りをしていた。
「先生、よろしくお願いします」
分厚い封筒が渡される。陽の下で堂々と渡される袖の下。振られる無い袖。
医者は頷く。顎の肉が揺れる。
おれたちはヴイアイピーじゃないからそんなものだろう。
おれだってそうだった。
フォンレックリングハウゼンは終わらない。
毎年やっている検査は昨対比で変化は無かった。でも何の気なしに10年前と比べてみたら酷い事になっていた。
首筋にソフトボールみたいな大きさのフォンレックリングハウゼン。
8時間もおれの首と格闘してくれた先生は何年か前にどこかのホテルで倒れて死んだらしい。
おれは知らなかったけど。
あの時に渡された袖の下は幾らだったのか、それは手術の成功率に寄与したのか。
それがなかったらおれは死んでいたのか。
寝たきりになっていたのか。
もしもそうなったら殺しておくれと遺書を書いては消す星月夜
病院や老人ホームで寝たままの祖父母を固定資産と呼ぶタイプの親戚が務める市役所が存在しているし。
それは別に異常な事ではない。
変な正義感を出して注意する方が白眼視される。
それが田舎だ。
シティーは?大差ないだろ。
「おじいちゃんもおばあちゃんも固定資産になったからね、ずっと元気で長生きしていてもらおうね」
壁に貼られたひ孫の絵は黄色くなりながら願いや祈りを溢し続ける。
そうやって経済を回している地方国家公務員の腕に光るオメガや、脂ぎった指に回されるエルグランドの鍵がある。
それら一子相伝のコネクションで生きている人間たちはよく笑う。
おれが子供の頃からそうだった。
それは裏通りのピンク映画館が消えた今でもそれは変わらない。
欲しいものは基本的に手に入らないのだと学ぶことが人生の意味だと思う。
腕力が足りない。
資本家の賃労働は病気なのでおれはあまり笑わなくなった。
死んだ祖父の葬式で出た弁当の費用を折半じゃなくて喪主に請求するタイプの兄弟を目の当たりにする。
花代も?小銭だろ?
でもそれを支払わせることに意味がある。
別に生きる事に対する甘美なカミュなんてものはとっくに無くなっている。
おれたちは車輪の下で眠る。
もう苦しいかどうかも分からない。
眠りは浅く、どこまでいっても不愉快だ。
朝の潮風はやたらベタつく。
隣家と裁判をしてまで得た15㎝の溝を飛び越えて煙草を吸う。
煙は遡る。
それが海風か山風かは曖昧なままにしておいた方がいい。
本当は裁判をするほどの事じゃなくても裁判をしなきゃいけなくて、曖昧なままに出来る事なんてのは実は世界に存在していない。
ただ頭を下げてやり過ごしているだけ。
それはまるで高校の時に受けた数学の授業。
「アメリカには民主党と何党がある」
「共産党です」
「アメリカに共産党はありえないだろ」
笑う教室。おれも愛想笑う。
とはいうものの卒業してから20年くらい経つとあながち嘘でもないんじゃないかなと思ったりもする。
先生はどう思いますか?
追試には行かないし行けば出来ない私を。
覚えていますか?
あの渡り廊下で駆け抜けた午後。
チャイム。
予鈴。
ビープビープ。
お祖父さんが死にかけだ。
いや、もう死んでいる。
廊下に鳴っていたお祖父さんの電子化された心音が止む。
ソファを蹴るように立ち上がる。
装置を外した看護師が廊下の奥に消えていく。
祖父はベッドの上で静かに呼吸をしている。
医者は立ったまま眠っている。
彼の見る夢はどんな色をしているのだろうか。
別にヴイアイピーになりたくはないけれど眠らない医者がいるならそっちの方がいいし、昨対比だけじゃないフォンレックリングハウゼンを見てくれる医者でもいい。
だけど全員死んでしまった。
祖父も、医者も。
夜空が近い。
中央線に揺られて見ている。
夜空が近い。
いや、窓が近い。向こうにある顔は反射したおれの顔じゃない。
そもそもおれはおれの顔を認識できるのかもわからない。
目配せをする。
中央線はゆっくりと沈んでいく、お茶の水に。
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