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Re: 【短編小説】天と点が憑なGirl深夜タクシー

 大粒の雨に打たれながタクシーにすべり込むと、運転手は静かにドアを閉めた。
「すみません、シート少し濡れてしまったかも知れません」
 そう言いながらも、傘やジャケットからは水滴がポタポタと落ちていく。
「構いませんよ」
 こんな日ですからね、と運転手は静かに答えた。柔らかく、だが太く厚みのある声だった。
「どちらまで行きますか?」
「えぇと、甲州街道から東八道路を抜けて三鷹までお願いします」

 運転手は静かにタクシーを出しながら、ハザードを切ってメーターを回した。もしかしたら無線で何かを言ったかも知れない。
 熟練されたその動きに無駄は無く、流れる水のように滑らかだった。無線のないものは美しい。そうなるまでに幾度となく積み上げた失敗があるのだろう。
 窓に当たる雨は、まるで誰かが煮豆を投げつけているかのような荒々しさだった。

「すごい雨ですね」
 ワイパーで左右に雨水を撒きながら「でも稼ぎ時ですからね、私どもは」と言って運転手は笑った。
「捕まって良かったですよ、なかなか来ないんで参ってました」
 おれは水浸しになって街灯や信号をキラキラと反射する道路を眺めていた。
「あ、そうた。運転手さん、すみませんがラジオつけてもらってもいいですか」
 後部座席からそう声をかけると、運転手は此方を振り向いて少し笑ってからコントロールパネルに手を伸ばした。
「局はAMでもFMでも、運転手さんがいつも聴いてるので構わないので。音は少し小さめで」
 運転手は頷きながら帽子に手を遣った。


 車内には知らない芸人コンビがテンポ良く喋る番組が薄っすらと満ちていった。
「いやね、別に運転手さんと喋るのが厭とかじゃないんですよ」
 言い訳がましく言うと、運転手は僅かに肩を揺らして笑った。
 正確には笑ったのか分からないが、恐らく笑ったのだろう。
「ただ、会話が途切れた瞬間の気まずさが苦手で、それが知らない人だと尚更。ともだちなら平気なんですけどね。わかります?」
 すると運転手は少しだけ顔をこちらに向けて小さく頷いた。

 タクシーがパン工場跡地を左折して甲州街道に入ると、目の前に高級外車がノロノロと走っていた。
「あ、運転手さん。隣の車線に行ってもらってもいいですか?」
 運転手は先ほどと同じ様に小さく頷くと、ウインカーを焚いて隣の車線に移った。
「すみません、変なことを頼んで。でもダメなんですよ、メルセデスのマーク。狙われてるみたいで。なんか照準器って言うんですか?あの覗くやつ、アレで見られてるみたいで。
 アハハ、変な妄想ですよね。
 でも逆にBMWのマークって、なんか弱点って言うかここを狙えって言う感じがして、バイクだと突っ込んじゃいそうで」
 そう言って最後にハハと笑おうとしたが、穏やかな運転手らしからぬ急ブレーキで遮られた。

 シートベルトの硬い感触に軽い痛みを感じるていると
「申し訳ございませんでした、お怪我はありませんか?」
 運転手はやはり、柔らかく太い厚みのある声で言った。
「大丈夫ですよ、運転手さんは大丈夫ですか」
「ええ、私は平気です。大変失礼致しました」
 重ねて詫びる運転手にその必要は無いと告げると、運転手は
「最近多いんですよ、自転車の飛び出し。気をつけてはいるんですけどね」
 と悲しそうに言った。

「あぁ、分かります。普段はバイクに乗るので。かなり気を使います」
 電動キックボードなんかも危ないですよねと同調した。
「バイクですか、先程も言ってましたね」
「はい。まぁバイクと言っても原付に毛が生えた程度の小さいバイクですけど。クロスカブと言うバイクでして」
「あぁ、新聞屋さんのより格好よくなってる感じのですか?」
 タクシーは甲州街道から放射8号線を抜けて東八道路にさしかかっていた。雨は相変わらず煮豆を叩きつけるようにして窓にぶつかっている。


「よく知ってますね、そうです、まさにそれですよ。緑色のバイクでね、後部座席を外して荷箱を付けてるんです。ステッカーをいっぱい貼って」
「賑やかなバイクですね。ここら辺を走りますか?」
 妙なことを訊くなと思った。住んでいるのがここら辺なら、そのバイクで走るのもここらへんだろう。
「そうですね、通勤で使ってるので。今日も雨じゃ無かったらバイクだったんですけどね」
 おれは何となく運転手に質問されるのが厭になって話を続けた。ラジオの小さな音は役に立たなかった。


「一年くらい前ですかね。その日、雨が降りそうだったんで、急いでたんですよ」
 タクシーは宇宙航空研究所の前を走っている。
「丁度ここだったかな、車列が3つ先の信号まで詰まっちゃってて、まぁ赤信号だし動いてないからいいやって思って、すり抜けしたんですよ」
 その瞬間、ルームミラーで運転手と目が合った。
 その目は厭な光り方をしていた。雨音がやけに大きく聞こえた気がして、息を吸うと乾いた埃の匂いがした。


「その時に、先頭から2台目か3台目の車と接触した、違いますか?」
 運転手が訊いた。
 訊いた、と言うより鋭く切り込むようにして口を挟んだ。
「……え?」
 おれが呆気に取られていると運転手は続けた。
「正確にはサイドミラーがぶつかった、もしかしたらバイク側はナックルガードだったも知れませんね」
「何を言ってるんですか?」

 もう窓を叩く雨音もラジオも何も聞こえなかった。運転手の柔らかく、厚い声がおれの首を絞めるように響いている。
「そしてあなたはそのまま走り去った。
 私は見たんですよ。緑色で、ステッカーだらけの派手な荷箱を積んだバイクが、私の車に、サイドミラーにぶつかって走っていくのを」
 ルームミラーの中で運転手の目が輝きを増していく。まるで濡れて光る路面のそれを全て集めたかの様に、黒い闇と光が強いコントラストでこちらを見ていた。


「そして目が合ったんです、その荷箱の中からこちらを覗く女と。
 氷の様に白い顔と赤信号みたいに真っ赤な目でね。荷箱の僅かに開いた隙間からこちらを見ているんです。
 あれ以降はずっと。
 ずっと、あらゆる隙間からあの女がこちらを見ているんですよ。
 昼も夜もありません。あれはお客さんに憑いてたんですかね?」
 おれは呼吸を忘れていたかの様に胸が詰まっていくのを感じて、窓を開けようとした。
 指はスイッチに届かない。
 それどころかピクリとも動かなかった。

 運転手は相変わらずの声で続けた。
「あんな接触で転憑するもんなんですね。
 ハハハ、驚きましたよ。あれはお客さんだったんですね。
 あんなの、どこで拾ってきたんですか?
 祓い方も分からないし、すっかり参ってたんですよ。当初は訴えてやろうかと思ってましたよ、ドラレコにもナンバーが写ってますしね。
 でも会社は面倒だからと動いてくれない。
 それなら仕方ないですよね。
 いやぁ、仕事を辞めないで良かった。遂に会えたんですからね!」
 運転手は朗らかに笑うとルームミラーから視線を外して振り向いた。

 おれはやっとの思いで指を伸ばして窓を開けると、激しい雨と共に新鮮な空気がなだれ込んできた。
 意識をつなぎ止めたおれは、できるだけ冷静に運転手に訊いた。
「そのバイクの荷箱にいた女は、こんな目じゃあありませんでしたか?」

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