Re: 【短編小説】ロックの先輩
どこにでもある居酒屋だった。
居酒屋の照明は埃で汚れながら黄色い光をまき散らしている。
座敷の畳はすり切れているし、座布団には醤油とゲロの染みがマーブル模様を描いていた。
「そーっすねぇ」
おれは適当に相槌を打ちながら、中途半端に食ったせいで余計に腹が減るのを感じていた。
正面に座っているロックの先輩は、くちびるの端に泡になった唾を溜めながら
「原発が爆発したらそれはもう”はだしのゲン”なんだよ」と言った。
いつからそんな話題になっていたのだろう。
たしかに、さっきまで自然災害で死ぬ人たちはそう言う運命にあったとか到達なんだとか、そんなことを言ってた気がする。
おれは黙ってコーラを飲んだ。
気の抜けたコーラは、黒くて甘い水だった。
ロックの先輩は酒で血走った目を開きながら続ける。
「みんな皮膚が溶けてドロドロになって死ぬんだ」
そう言って自宅から持ち込んだ安酒を鞄からコソコソ取り出すと、残り少なくなったウーロンハイのジョッキい入れて飲んだ。
吝嗇と倫理の境界線はとっくのむかしに溶けてなくなったロックの先輩は、いつもこうやって安居酒屋に来ては長っ尻をする。
「全身の皮膚が溶けて死ぬんだよ」
ずいぶんと腹が減ってきたけれど、つまみを追加注文をすると吝嗇なロックの先輩がうるさいので我慢した。
その代わりに煙草を取りだして火をつける。
ロックの先輩はおれが吸う煙草には文句を言わない。
「先輩、それは放射能の所為じゃないよ」
ぼくは努めて冷静に言うけれど、それを聞いたロックの先輩は目を見開いて叫ぶようにして言った。
「なるんだよ!はだしのゲンくらい読んだ方がいいよ、作家だろ」
知識より感情が先立って絶叫するのがロックなんすか、と言おうとしたけど我慢した。
社会性ってやつだ。
それに先輩の実家はたしか共産党系だったし、仕方ない。
「そーっすね」
もしかしたらおれが間違えているのかも知れないなと思ったけれど、先輩の懸念は別にどうだっていいので早く帰りたいなと思った。
どうでもいいけど、ロックの先輩はヴォーカル以外のバンメンを募集している。
ずっとだ。
ロックの先輩は位置エネルギーを変換したら原発は要らないのに、それをやらないのは政府の陰謀だ!と真顔で言うタイプの人間だ。
ちなみにフリーターだ。
どの職場でも働きぶりは褒められるし、むかしはファッション雑誌のストリートスナップに撮られた事もあるらしい。
ロックの先輩が持ってる小さな誇りだ。
でもおれが就職したと言ったときは何故かキレ散らかしていた。
「いまお米農家が減ってるんだって」
ロックの先輩が無言になった。
気がつくと隣のテーブルについた女子高生たちが、焼き鳥を食べながらコーラを飲んでいる。
最近は居酒屋で食事をする学生が多いのだろうか。
先輩はさっきまでの陰謀論やら何やらをどこに置いたのか、女子高生たちを盗み見ていた。
彼女たちが本当の女子高生であるかどうかを推し量ることはできない。
もしかしたら職業で制服を着ているだけかも知れない。
どうでもいいけれど別に彼女たちとセックスはしたくないなと思った。
でもロックの先輩は彼女たちとセックスをしたそうにチラチラと見ていた。
それもあって早く帰りたいなと思った。
一緒にいる時にナンパしないで欲しい。
先輩は唇の端に唾を溜めながら、トークだけで持ち帰ろうとする。
そこら辺はロックかも知れない。
女子高生の姿をした人たちが盛り上がる。
「えー、何それヤバくない」
「お米の消費量も減ってるんだってさ」
「ヤバいよねー、うちら日本人なのに」
「てかさー、なんか足りなくない」
「わかる、なんかハンバーガーとか食べたい」
「あーね」
「てかさー、ここより回転寿司の方がコスパ良いじゃん、お茶タダだし」
「あーね」
「でもここらへん無いか」
「需要少ないっぽいしね」
需要と供給とか生と死の倫理とか、淘汰と残存とか、おれとロックの先輩とか、女子高生とか。
必要とされない存在は淘汰されていく。
でもおれたちは必要とされているから生き残ってる訳でもない。
「ちげぇよ、おれたちには何か為すべきことがあるから生き残ってんだよ」
おれが為すべきこと。
ロックの先輩が為すべきこと。
女子高生の姿をした人たちが為すべきこと。
そんなものはこの世にない。
この飲み会だって必要とされているから開催されている訳でもないし、おれは早く帰って眠りたいと思っている。
ロックの先輩は再び持ち込みの安酒で濃くしてウーロンハイを飲んだ。
そうやって生きることが為すべきことなんすか。
しみったれた貧乏性と吝嗇が蝕むロック性について考えながら気の抜けたコーラを飲むのが為すべきことなんすか。
ロックの先輩の小鼻は膨らみ、期待と股間はアルコールで曖昧になっている。
「もう帰りませんか」
そう言えたら楽になるのかも知れない。
ロックの先輩は女子高生たちをチラチラ見るのをやめた方がいい。
素直に帰って、使った後に洗ってないバイブを舐めながら「クンニクンニ」と言うのもやめた方がいい。
そう言えたら楽になるだろうか。
それはおれが為すべきことだろうか。
ロックの先輩が最後にしたセックスを思い出しながらオナニーをする夜をどうにかこうにかやり過ごす、無様で惨めな記憶をどうやって淘汰していくのか分からない。
「とにかく、今夜はもう帰りませんか」
その一言がどうしても言えないまま、おれは気の抜けたコーラを飲んで曖昧に笑う。
「バイク買ったらさ、後ろに乗せてよ」
どうして先輩はおれバイクの後ろに乗る事を楽しそうに言うのかもわからないし、おれはとっくにバイクを買ったことを言えないままだ。