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【小説】オサムが死んだ ノザキさん

 オサムが死んだ。
 その男はそれだけ言った。
 オサム。
 オサムとは誰なのか。この男は何者なのか。一体なんの目的で私にその話をしたのか。右手を繋いだ子どもが怯えて私の後ろに隠れた。
「あの、誰なんですか」
「だからオサムですよ、知ってると思うんですけど」
「違います、あなたが」
 むかしみたいな眼光の鋭さは無くなったとしても、私は自分がそこら辺の女よりは強い気でいた。だがそれは知り合いだとかナンパ男に対してのみ有効なのだと思い知った。目の前にいる男はたじろぐでもなく、ただ真っ直ぐ立っている。
 齧った程度の格闘技的な感覚だが、この男の厭な感じとは、たぶんいつでもどうとでも動ける体勢なのだ。重心がどちらにも偏っていない。私を、どうしようと言うのか。
 とても路上で襲うようには思えない。
 閑静な住宅街に似つかわしくない作業服と派手な柄シャツ。
 自分もかつて似たようなジャンルの恰好をしていたが、この男の恰好は何か違う。オシャレとは言えない。奇抜だ。そんな男が駅からここまで歩いてきて、誰にも目撃されていないはずが無い。仮に車やバイクで来たとしても同じだ。
 つまり何か悪い事をしよう、と言う訳じゃないだろう。
 悪い事。
 有体に言えばレイプだ。
 レイプ。この男が私に価値を感じている前提で私はそう考えたのか。
 右手に捕まった子どもの手に力が入る。
「オサムの知り合い、と言うか」
 男は顔だけを背けて言った。せめて子どもを見ていないように、と思わせる為のポーズなのかも知れない。
 誘拐が目的でもなさそうだしレイプ、と言うか私が目的でもなさそうだと思う。
 だとしたら何が目的なのか。
「ただそれを、オサムが死んだってことを言いに来ただけで」
 男は相変わらずそっぽを向いたままだ。
「別に目的も無いなら帰ってくれないかしら」
 精一杯の虚勢を張って言う。
「まぁ帰ってもいいんだけど」
 男は所在なさげに言う。「オサムが死んだ、その事を伝えたから」とうつむく。
 何なのだろう。そもそもオサムとは誰なのか。
 むかしつるんでいた連中の中にそんな名前の男がいただろうか。その時の仲間、その知り合いにまで広げるともうわからない。全員を把握して遊んでなんかいなかったし、酒に酔って覚えていない事なんて多々ある。
 この子どもだって本当は誰の子どもかもわからない。
 たぶん、別れた男の子どもと言うだけだ。成長した時に今の男と顔が似ていないだろう事を考えると毎晩憂鬱になる。
 そのオサムと言うのはこの子の親なのだろうか。オサムと言う男から聞かされてこの男はここまで来た、と考えられなくもない、仮にそのオサムと言う男がこの子の父親ならなんで今まで黙っていたのか。
 いや、黙っているだろう。
 私の様な女を連れて歩きたいとも思うまい。
 夏でもラッシュガードが欠かせないほど全身に描かれたラクガキ。後悔しかない。どこへ行っても視線が気になる。昔だったらガンくれてる奴らを片っ端から蹴り飛ばしていたけれど、それは学校だとか仲間内でしか通用しない手段だった。
 社会はそうもいかない。
 親の言う事を聞いておくべきだった。または姉の小言も。
 その姉がまるで自分たちから逃げるかの様にコソコソと狭い道の反対側を歩いていく。コンビニにでも寄った帰りなのかビニール袋を提げている。呼び止めても反応しない。
「ちょっと、ねぇ聞こえてるんでしょ。この子連れて中に入っててくれない」
 私が姉に声を荒げて呼びかけると、姉はビクっとした感じで立ち止まった。

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