Re: 【短編小説】シトロエンDS21 or キャデラックエルドラド
逆さに伏せられた右手側の湯呑みを開けた彼は
「未来と言うものは唐突に終わる」
そう言って左手側の湯呑みも開けた。
どちらも空だった。
「なによ、イカサマじゃない」
口を尖らせた私を彼は笑って「人生なんてイカサマばっかだろ」と言うと、グラスに入った緑色の酒──たしかコカレロとか言うやつだ──を飲み干した。
そして眉間に皺を寄せて渋い顔を作り、煙草を咥えると
「これは緩慢な自殺だな」
そう言って少し笑った。
その笑顔すら私の神経を逆なでする。
苛立ちを押し潰すように、皿の上でだらしなく散らばった軟骨の唐揚げを箸でつまんで口に放り込んだ。
しかし軟骨だと思ったそれは単なる油の塊で、期待していた歯応えは肩透かしを食らい、古い油の苦味だけが口に広がる。
苛立ち。
これも一種の弛緩した自殺なのかなと思う。
そんな気持ちを知ってか知らずか、彼は赤くなった顔で続ける。
「ほら、よく駅前の樹とかが切られてたりするだろ、結構大きいのに」
彼も箸で軟骨に擬態した油カスをつつく。
「そうやって俺たちの未来も急に切られて終わる事もあるって話だ」
そして器用に箸で油カスを潰した。
それはそうかも知れない。
交通事故なんてのはその最たる例だろう。
「だからね、今の内にやらなきゃいけない事ってのは沢山ある。旨いものを喰うとか、観光地で風光明媚な景色を見るとか」
おっと、そこまでだ。
私は手のひらを彼に向けて制止すると、乾ききった突き出しの煮物を口に運んだ。
「だからって」
だが彼も負けじと被せる。
「今しかないんだよ」
彼は煙草を指でトントンと叩いて灰を落とした。
「今しかないんだ」
重要なことらしく、彼は2回繰り返した。
「相談してくれれば良かったのに」
とりあえずは受けて返すほかなさそうだ。
ため息を吐きながら答える。
彼はすこし間をおいてから
「待っている余裕は無かったんだ。多分これを逃したら次は無い。永遠に出会う事は無い。俺が君に出会えたのも偶然だし、俺があれに出会えたのも偶然だ。それで、次は無い」
そう言って煙草を灰皿に押し付けた。
消え切らない火が細い煙を立てている。
彼のターンが終わったのを確認してから慎重に返す。
「だからって、私たちの結婚資金に手を出す事ないじゃない」
通帳を場にセットしてターンエンド。
「使った分は戻すよ」
口約束。
彼は新しく煙草を咥えてターンエンド。
「貯金は?」
探りを入れる。
「それもちゃんとやる」
ブラフだ。
「どうやって?」
「バイトも増やしたし、残業だってするよ」
これもブラフ。
まだバイトを探している程度だ。まさかマクドナルド前で地蔵をやるつもり?
ならこちらのターンだ。
「私たちの時間はどうするの?」
私生活を攻撃表示にセット。
「それも確保する」
彼の守備表示。
「どうやって?」
当然の追撃。
「寝る時間くらい削るさ」
当たり前かのような答え。
ここで深呼吸をひとつ。
アンガーマネージメント?
激昂しやすいので泣き喚いて冷静さをとり戻したいが、この戦況で泣いたら負けである。
一本ちょうだい、と煙草をもらい間を置く。
「そんなの長続きしないよ」
戦闘再開。
私たちはもう学生じゃないの。
「やってみなきゃわからないって」
その自信はどこから来るのか。
それが魅力と言える場面もあるが、苛立たせられる場面も少なくない。
「少し考えたらわかるじゃん、無理だよ」
「それでも乗りたかったんだ」
素直さを表示して彼のターンが終わる。
ならばこちらも割り切ろうじゃんか。
「あんなの、動けばなんだって同じじゃん」
箱にタイヤがついてて動けばそれで良い。
重要なのはその事実と中身──居住性みたいなもの──であって、外側ではない。
私はウェルベックを召喚してターンエンド。
大きく吸った煙草を彼に吹きかけて直接攻撃。
「違うんだよ、それは違う」
彼は手で煙を払いながら回避。
効いてる効いてる、まとめるなら今だ!
「だって、その車が走ってるのは自分で見えないじゃん」
ガウディ建築のベランダに立つ自分を通りから見上げる事はできない。
それは隈研吾だろうと白井晟一だろうと変わらない。
その生活は客観視できない。
だが彼も負けない。
カウント2で肩を上げる。
「その車を運転してるってのが重要なんだよ」
ナルシズムとロマンチシズムで切り返す。
なら現実味でエビ固めだ。
「燃費だって悪いし、整備費だってかかるんでしょ」
「うん、それはそうだ」
よし、ポイントリード。
「そのお金だってかかるじゃん」
「煙草、やめるよ」
「その程度でどうにかなるの」
ここも優勢。
「酒もやめるかな」
「私がどんなに言ってもやめなかったのに、車の為ならやめるんだ」
これは決まり手になるんじゃないか?
「そう言う訳じゃないけど」
ほら、グロッキーだ!
彼はたっぷりカウント2.999まで使って、目を閉じて天を仰ぐと、青息吐息で切り返した。
「そこまで言うなら君のエルドラドはどうなのさ」
伝家の宝刀のつもり?
「あれは違うわ」
「何がだよ、古くて燃費が悪くて整備費がかかるだろ」
鼻を鳴らす。
「あれはお父さんのだもん、私のじゃない」
トラップカード、父の遺産を発動。
急所のつもりで攻めた彼は口籠る。
「それはそうだけど」
「じゃあ私のとは違うじゃない。だいたい、私が買った訳じゃないでしょ」
「それもそうだけど」
ここで一拍。
緩急は大事だ。
「それにエルドラドって言うけど、私もあんな古くて大きいの厭なのよ」
燃費も悪いし取り回しも悪い。
アメリカは広くて、アメリカ人は馬鹿だから良いけど、日本には不向きだ。
売っても良いのよ?
言わないけれど匂わせると、彼は少し慌てる。
「いや勿体ないって、あれを売るの」
「そう言うのもあなたじゃん」
さぁ、詰めろの時間だ。
キサマはもうチェックメイトにはまっているのだ!!
「いやまぁそうなんだけど」
「じゃあそのエルドラドとか言うのと、あなたが買ったシトロエン、選ぶならどっち?」
「え、なにその質問」
「選ぶならどっちかって聞いてるの。二つも要らないでしょ」
現実味のミルフィーユ。
「いや、それは急に選べない」
動揺しているな?
だがもう遅い!
「ほら、早く」
「無理だ、時間をくれ」
「厭よ、何の相談も無しにシトロエンを買うって決めたんだからそれくらい即決して」
当たり前の要求。
動揺している彼は今にも煙草を箱ごと吸いそうな勢いである。
「ま、待って……」
「ほら。3,2,1」
「シトロエンだ!シトロエンを選ぶ!あいつはもう二度と会えない……」
私としてはどちらでも構わないのだが、何となく予想はついていた。
別にエコカーにしろなどとは言ってない。
碧いウサギは二羽も追えないと言うだけ。
「わかったわ。じゃあ今度、エルドラドは売りましょうか」
「本当に売っちゃうの……」
捨てられた犬のような顔をするが、そんなものは演技だ。
何年の付き合いだと思ってる。
私を甘く見るんじゃあない。
「二台も要らないでしょ」
現実パンチ。
「そうだけど」
「こう考えてみたら?あなたがその車に出会えたように、私のエルドラドとも出会いたい誰かがいるって」
ロマン砲のフック。
「そりゃまぁ、そうだけど」
納得と沈黙。
彼は酷く意気消沈した表情でグラスの底に残った数滴のコカレロを舐めた。
私がつまんだ軟骨揚げはコリコリと小気味良い音を立てて弾ける。
10カウントの代わりに呼び出しボタンを押してお会計を頼んだ。
ゲームセット!
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