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Re: 【小説】オサムが死んだ ノザキさん

 オサムが死んだ。
 その男はそれだけ言った。

 大きな声を出すべきか迷っている間に、そうするべきタイミングを失った。
 オサム。
 オサムとは誰なのか。
 そう言ったこの男は何者なのか。
 一体なんの目的で私にその話をしたのか。
 手を繋いだ子どもが怯えて私の後ろに隠れた。
「あの、誰なんですか」
 声が震えないように下っ腹に力を入れた。
 男は頭を掻きながら短いため息を吐いた。やれやれ、とでも言いたげな態度だった。
「だからオサムですよ、知ってると思うんですけど」
「違います、あなたが」
 誰なんですか。
 眼に力を入れた。男のサングラスに私が写っている。
 男はこちらを見ているのだろうか。


 むかしみたいな眼光の鋭さは無くなったとしても、私は自分がそこら辺の女よりは強い気でいた。
 だがそれは知り合いだとかナンパ男に対してのみ有効なのだと思い知った。
 目の前にいる男はたじろぐでもなく、ただ真っ直ぐ立っている。
 私を、どうしようと言うのか。
 とても路上で襲うようには思えない。
 閑静な住宅街に似つかわしくない作業服と派手な柄シャツ。
 私を待つ間にこの男を見た人の数は少なくないはずだ。
 それに子どもだっている。
 つまり何か悪い事をしよう、と言う訳じゃないだろう。
 悪い事。
 有体に言えばレイプだ。
 レイプ。この男が私に価値を感じている前提で私はそう考えたのか。
 右手に捕まった子どもの手に力が入る。


「オサムの知り合い、と言うか」
 男は顔だけを背けて言った。
 せめて子どもを見ていないように、と思わせる為のポーズなのかも知れない。
 誘拐が目的でもなさそうだしレイプと言うか私が目的でもなさそうだと思う。
 だとしたら何が目的なのか。
「ただそれを、オサムが死んだってことを言いに来ただけで」
 男は相変わらずそっぽを向いたままだ。
「別に目的も無いなら帰ってくれないかしら」
 精一杯の虚勢を張って言う。
「まぁ帰ってもいいんだけど」
 男は所在なさげに言う。
「オサムが死んだ」
 それを言いにきただけだから、と言いながら腕時計を見て帰りたさそうな素振りすら見せた。

 
 オサムとは誰なのか。
 むかしつるんでいた連中の中にそんな名前の男がいただろうか。
 その時の仲間、その知り合いにまで広げるともうわからない。
 全員を把握して遊んでなんかいなかったし、酒に酔って覚えていない事なんて多々ある。
 この子どもだって本当は誰の子どもかもわからない。
 たぶん、別れた男の子どもと言うだけだ。成長した時に今の男と顔が似ていないだろう事を考えると毎晩憂鬱になる。
 そのオサムと言うのはこの子の親なのだろうか。
 オサムと言う男から聞かされてこの男はここまで来た、と考えられなくもない。
 仮にそのオサムと言う男がこの子の父親ならなんで今まで黙っていたのか。


 いや、黙っているだろう。


 私の様な女を連れて歩きたいとも思うまい。
 夏でもラッシュガードが欠かせないほど全身に描かれたラクガキ。
 後悔しかない。
 どこへ行っても視線が気になる。
 昔だったらガンくれてる奴らを片っ端から蹴り飛ばしていたけれど、それは学校だとか仲間内でしか通用しない手段だった。
 社会はそうもいかない。
 親の言う事を聞いておくべきだった。
 または姉の小言も。


 その姉がまるで自分たちから逃げるかの様にコソコソと狭い道の反対側を歩いていくのが見えた。

 コンビニにでも寄った帰りなのかビニール袋を提げている。
「ねぇ」
 呼び止めても反応しない。
「ちょっと、ねぇ聞こえてるんでしょ。この子連れて中に入っててくれない」
 私が姉に声を荒げて呼びかけると、姉はビクっとした感じで立ち止まった。

 姉がゆっくり顔を向けた。
 この男はもちろん、私すら視界に入れないように努めながら子どもだけを見ている。
 右手を掴んでいた子どもは私の手を放すと、姉の手を掴んで家の中に入っていった。
 家。
 老いた両親と、無職で半ば引きこもりの姉。
 そしてシングルマザーの私。
 奇妙な共同生活だ。
 長い歴史の果てに崩壊した距離感がこの家の中に詰まっている。
 息が苦しい。
 どうして私がこんな思いをしなきゃならないのか。


 挙句の果てに、こんな男に絡まれる。


 その時、ふと思い出した。
 オサムとは誰か、それは昔に姉が好きだった男の名前だ。
 姉の同級生、そいつの兄だったと思う。
 別に格好よくも無い、流行りに乗った訳でもない、ダサい男だった。
 いや、当時はわからなかったけれど遊び始めるようになるとそう思う。


 多分姉は年上の男と言うだけで好意を寄せていたのだろう。
 姉の年上好きは子どもの頃からだったのか。
 だから職場で不倫なんかして捨てられて精神を病むのだ。
 真面目な人間ほどそうやってひとつの失敗で大きく躓く。


 ポケットから煙草を取り出して火を点けると、メンソールの清涼感が鼻腔を突き抜けて肺を満たした。
 まぁ、自分もひとの事を偉そうに言える立場にはない。
 躓いて転がり続けた先がいまの自分だ。
 もう一度メンソールの煙を吸い込んで、男に向かって煙を吹きかけた。
 子どもと言う弱味を克服して気が大きくなった。私ひとりならどうとでもなる。
「でも、それを伝えるなら私じゃなくて姉なんじゃない」
 

 男は吹きかけられた煙を払うでもなく、怒るでもなく平然としていた。
「まぁ、どっちでも。どっちかに伝えれば二人には伝わるから」
 じゃあ帰りたいんだけどもういいかな、と言いたげな態度だった。
「あ、そ」
 まだ何かあるの、と訊けば引き止めてしまう気がした。


 私の運が悪かったと言うだけなのか。
 帰るのがあと数分遅かったらこの男は私ではなく姉にそれを伝えたのか。
 精神を病んだ引きこもりの姉にかつて好きだった男が死んだと。

 それなら私が聞いておいて良かったと思う。
 これ以上この家の中で面倒を起こしたくない。
 反抗的な生活を続けていた私と職場で精神のバランスを崩した姉。
 ふたりを抱えて両親はすっかり老け込んでしまった。
 もっと言えば荒んだ家の中で荒んだ生活を送っている。
 私の暴力の記憶が拭えず、一挙手一投足に怯えている。

 それにも腹が立つ。
 だが金が無いからどこにも行けない。
 せめて姉だけでもどこか遠くに行ってくれたのならまだ快適なのに。
 いっそこの男がそれを姉に直接伝えて死んでくれてたりしないだろうか。
 そこまで考えて鼻で笑った。
 自分の性格が悪いのは自覚していたが、ここまでだったか。
 金持ちの家に生まれた年子の次女。
 性格が悪くなる要素は揃っている。
 環境を言い訳にする気は無いが、当然の様に性格が悪く育った。
 別にそこに自分の人生の責任を転嫁する気は無い。
 自分の人生のケツくらい自分で拭く、と言いたいが拭き切れていない。
 実際にこうして実家に頼り切った生活をしているのなら偉そうに何かを言えることもないだろう。
 それにしても。
 なんで私が自分の事をこうまで考えなきゃならないのか。
 晩メシ、洗濯、週明けの準備とやるべき事は沢山ある。
 それをこの男に邪魔されている。
「それ以上の話が無いなら帰ってくれない」
 男の足元に吸い殻を弾き飛ばした。
 オレンジ色の火種がクルクルと周る。
「まぁ、帰るけど」
 男は自分の足元に転がった吸い殻を見ようともしない。
「けど何よ」
「なんも無いんですか」
「なんもってなに」
 お見舞い金でも寄越せと言うのか、それともお悔やみの言葉のひとつでも捻りだせと言うのか。
 覚えてもいなかったような男の為にそんなことをしたくはない。

「ポイ捨ては良くねぇっしょ」
 男はしゃがみこんで煙草を拾った。
 その時にふと思いたって、隣家の塀の上に在った植木鉢を男の頭に落とした。

 男は前のめりに崩れ落ちた。
 この男が死ねばなにか変わるかも知れないと思った。
 ふと顔を上げると、姉が薄暗い二階の部屋からこちらを見ていた。
 この男がオサムだったら面白いのにな、と思った。
 明日からは掃除洗濯をしないで済む。

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にじむラ
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