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Re: 【短編小説】座礁イルカShortHOPE
豆乳=イソフラボン・木綿子(まめちち いそふらぼん もめんこ 以下 木綿子)は車椅子を降りると劣勢遺伝で短い割に真っ白い足で立ち上がり、たったいま降りたそれをガード下の駐輪機に押し込んだ。
いまにも降り出しそうな空の下で、慣れ親しんだ車椅子を振り向いたけれど、特に何の感慨も無かった。
もう二度と乗ることはないだろう。
歩けないフリ?なんて馬鹿馬鹿しい!
「フン」
鼻で嗤うと、車椅子が拗ねたようにキィと小さな音を立てて揺れた。
「放置自転車ならぬ、放置車椅子だね」
やがて不法駐輪だとか何だとかのシールが数回貼られて撤去されるか、近所の悪ガキか劇団員みたいなのが面白半分で持って行くだろう。
やがて埃塗れになった車椅子を想像してみた木綿子だったが、いまいち実感がわかない。
別にどうなったって構わない。
放置車椅子くらいじゃ警察は動かない。そんな事より都会では自殺する若者が増えているし、海辺では座礁するイルカが増えていると言う。
そうだ、座礁したイルカだ。
木綿子は、あした座礁したイルカを見に行こう!とは言ったものの、実際に約束をした直後から行くのが面倒になってしまっている。
誰かがダブルブッキングをしてしまっていてこの話は無しにならないか、と思っていたがどうにもならない。
なんであんな事を言ってしまったのか。
面倒くささのあまり遂には誰かの親族に死なない程度の不幸でも起きないか、とも思ったが勿論それもない。
当然ながら地震だとか戦争だとかも起きない。天気もバツグンに良い快晴だ。
なんなら電車の遅延すらない。
木綿子は大きな溜息をついた。
なぜ座礁したイルカなんぞを見に行こうと言い出したのだろう?
蝶よ花よと可愛がられる海の絶対的ランキング王者が、浜辺で無様な姿を晒しているのを見て嘲笑しながら酒でも飲もうと思ったのかも知れない。
普段は陽に灼けて茶色く肌引き締まった肉体を自慢げに見せながら歩く人間たちが、汗を流しながら必死に座礁イルカたちを海に押し戻そうとしてオロオロする姿を見たかったのかも知れない。
またはそのまま海に入ってしまおうと思ったのか。
とにかく何かをしようと思い、何かをしたくて誘ったのは確かだが、木綿子は何も思い出せなかった。
ガード下を出ると、オレンジ色の夕陽に照らされた商店街が切り絵みたいな影をあちこちに貼り付けていた。
夕方の薄暗い空には白く月が浮かんでいるのが見える。
朝方に見える月を残月と呼ぶのは知っているが、顔を出すのが早過ぎた月と言うのはなんと呼ぶのだろう。
未熟月か生月か、特に洒落た名前を思いつけない木綿子は自嘲して再び溜息をついた。
その時だった。
月の辺りから夕方の空が割れ始めた。
まるで柔らかく煮た豚肉が解れていくみたいに、曲線的に空は皹を広げていくのが木綿子の目に映る。
そして裂けた空の向こうには、また別の巨大な空間が広がっているように見えた。
あれは空、だろか。
割れた空の向こうに空が見える。
そこには沈んで行く太陽とは別の太陽があり、さらに残月か未熟月のようなものも見える。
そしてその向こうには巨大な海に似た景色が広がっていた。
海の様なものは波打ち、巻波の轟音が聞こえてきた。
海だった。
海があり、特徴的な色の波消しブロックが積まれている。月が出ている方向もそうだ。
つまりどういう事だろう?
木綿子は考えた。
誰もあの空に気づいていないどころか、立ち止まっている木綿子を迷惑そうに見て通り過ぎて行くのだった。
やがて空の裂け目から波が侵入してきたのか、商店街に海水が降り注いだ。
街は波だとか砂粒に押しつぶされて壊れていく。
だが商店街の人々はまるで気づかないまま、逃げ惑うこともなく、波と砂に飲み込まれていった。
まるで日常みたいに、当たり前であるかのように、無抵抗のまま、静かに、商店街は姿を消していった。
木綿子は愉しくなって、やはり海岸まで座礁イルカを見に行こうと思った。
イルカの中を覗けば、そこにこんな街が見えるのかも知れない。もし見えなかったら中に這入って、そこから月を眺めよう。
木綿子はそう考えるとあしたが楽しみになった。
イルカの胎内は貝の様に波音が聞こえるのだろうか。
木綿子はスキップしながら笑った。
商店街を飲み込んで波は満足したのか、小さく寄せて木綿子の足をくすぐった。
でも木綿子には足なんて無かったし、自分には名前すらなかったことを思い出して悲しくなり、やがて道端にうずくまった。
そして油断したところを引き波に攫われて消えた。
そう、商店街のみんなも木綿子と同じように、足も名前もなかったのだった。
明日も、今日すらもなかったのだった。
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