【超短編小説】がちゃん
過積載の空き缶を運ぶ妖精の自転車が月明かりの下を行くのが見える。
夜の影はまだ伸び続けている。
切った爪の様に薄い月が濃紺色をした空に白濁と光っている。
可笛 韻太郎は急速に冷えていくマグカップを両手で包み込んだ。
中に淹れられたコーヒーが微かに暖かいが、マグカップの表面は既に冷たくなっている。
立ち昇る湯気と韻太郎の吐く息が交差してぐるぐると渦巻いて消えた。
過積載の自転車を押した妖精は横断歩道を渡り切った瞬間に転んだ。
空き缶が散らばる音が響く。
硬く、マンションに、響く音がどこまでも。
薄汚れた妖精は舌打ちもせずに立ち上がる。
現代の落ち穂拾い。見ている韻太郎の肉体が羞恥と苛立ちで熱くなる。
今すぐ目を逸らすべきだ。
このマグカップを置いて駆け寄れないのならここから彼を眺める権利なんて無いはずだ。
だが韻太郎はそうしない。
世界が歪んでいるのはそう言った自己愛の所為だと分かっていたし、そんな自己都合の正義が薄汚れた妖精を救ったりはしないのも知っていた。
外れたチェーン。過積載の自転車。散らばった空き缶を拾う手の痛み。
踏み潰されて小さく畳まれた祈りや願い。
または小さな幸せ。そうでなければ絶望。
羨望に至るまでの創造力すら無く引きずる、擦り切れた十二単衣。
韻太郎はマグカップの中身を飲み干した。
それは全てが韻太郎のナレーションだ。
彼の言葉でもないし韻太郎の体験でもない。
身勝手な恥知らずの言葉遊び。
滅びの美学を嘲笑う妖精の放つ尿が響く。
不健康なビタミンカラー。
韻太郎はマグカップを窓の縁に置いた。
恥の上塗り。薄汚れた存在。
妖精はまだ人間だった、その頃に見た景色の事をここから、勝手にも、考える、それが、愧。
韻太郎がさっきまでまだ人間であった様に、薄汚れた妖精にも名前があった時期がある。
親だとか友人だとかと過ごした幸福な瞬間があるはずだ。錯覚でも良いからそうあるべきだ。その願いこそが自分の救いになる。
ヒトトシテ……、夜の内、夜の間にヒトに成る、戻る、還るんだ、焦りと愧が締め付ける、喉の奥から、細い息、漏れて、出る。
薄汚れた妖精が振り向いた。
韻太郎は目が合ったと思った。
「本当は見えちゃダメなんだ」
薄汚れた妖精の声が聞こえた気がした。
韻太郎は恥ずかしくなった。動揺して動かした手が当たり窓の縁からマグカップが落ちた。