公威少年は天下の女魔術師に憬れた。
演技って、なんだろう? コドモは演技することによって人生を学ぶもの。たとえば女の子がままごとをするように。男の子が特撮作品のヒーローを演じ活劇ごっこに明け暮れるように。これは誰もが経験するあたりまえの通過儀礼ではある。大人になってもたとえば、女は恋人を、妻を、母を、場合によっては愛人を、ひいてはおばあさんの役を演じ分け人生を生きてゆく。男とて、仕事を持てば役職の役を演じ、上司に対する態度と部下に接するそれとではいくらかなりとも違うもの。また、結婚すれば夫の役、コドモを持てば父の役、浮気をすれば愛人の役を演じながら人生を乗りこなしてゆく。
しかしながら、この演技もまた程度問題ではあって。たとえば演技によって人の注目の的になっていなければちっとも楽しくないとか、過度な性的誘惑を日常化してしまうとか、芝居がかった態度で人びとを翻弄するというようになれば、いささか困ったことになるものだ。〈三島由紀夫の演技的人格〉、これは注目すべきポイントである。
三島由紀夫の『仮面の告白』のなかで、もっともぼくが好きなくだりは、公威少年が魔術の女王・松旭斎天勝に憬れ、コドモならがに天勝に扮したエピソードである。当時の天勝と言えば、天下一品の清楚な美貌、つけ睫毛で演出された大きな瞳、グラマラスな体をスパンコールきらきらの衣装に身を包み、数々のマジックで妖艶な流し目で男たちを魅了する、魔術の女王である。伊藤博文も松旭斎天勝に魅了されたほど、国民的大スターだった。
24歳の三島はコドモ時代の感動を振り返る、「彼女は豊かな肢体を、黙示録の大淫婦めいた衣装に身を包んで、舞台の上をのびやかに散歩した。手褄使い特有の亡命貴族のような勿体ぶった鷹揚さと、あの一種沈鬱な愛嬌と、あの女丈夫らしい物腰とが、奇妙にも、安物のみが発する思い切った光輝に身を委ねた贋作りの衣装や、女浪曲師のような濃厚な化粧や、足の爪先まで塗った白粉や、人工宝石の堆い瑰麗な腕輪などと、或るメランコリックな調和を示していた。むしろ不調和が生み出す陰影の肌理のこまかさが、独特の諧和感を導いてきていたのだ。」公威少年は天勝に憬れた。天勝になりたいと胸を焦がした。
ある日かれは自宅で顔に薄く白粉を塗って、縮緬の風呂敷を頭に巻き、母親の着物のなかでいちばんごてごてしたきらびやかなものを選び身に着け、油絵具で緋の薔薇が描かれた帯を巻き、病床の祖母、母、来客、女中たちの前で「天勝よ。僕天勝よ」とはしゃいだ。
ところが家族の反応は冷たかった。冷たかったどころの騒ぎではない。母親は「こころもち青ざめて、放心したように座っていた。そして私と目が合うと、その目がすっと伏せられた。」そして公威くんは、女中に取り押さえられ、「羽をむしられるにわとりのように、またたくまにこの不埒な衣装を剥がされ」るのだった。その理由はよくわかる。なぜなら一般に女というものは、少し不良っぽい男に惚れるものなのだ。たとえばそれは宝塚のスターがきまって男役で、彼女たちが演じる「男」がこぞって不良っぽい男であることからもわかる。もっとも、そんな女たちとて他方で、世にも美しい女を演じる「男」に喝采を送りもする。「あたしたち女なのに、負けてるわ」というわけである。いかにも矛盾した心の動きながら、それが女というものである。なお、公威はまるで女の子のように育てられたながらなお、女の矛盾した男性観に気づくには、まだまだ幼過ぎたのだった。
いずれにせよ、少年時代の三島は世紀の女奇術師になりたかった。なりたくてたまらなかった。しかし、それを無邪気にはしゃいで表明したとたん、自分のその演技は家族を悲しませてしまう。三島とて家族を幻滅させてしまうことは辛い。そんなことを望んでいるわけではない。自分が遊び楽しみ、それを見る大人たちをもよろこばせたかっただけなのだ。こうして少年時代の三島は自分の女装をして演技する欲望を、少なくとも祖母、母相手に対しては抑圧することになる。もっとも、それでも公威くんの女装欲はその後天勝からクレオパトラに替わり、今度は祖母や親の目を盗んで、妹や弟相手に披露することになるのだけれど。
あるいは、こういうことはコドモ時代に誰にでもあるエピソードかもしれない。それでもぼくはおもう、三島はコドモの頃から女への、そして魔術師、演技者への憧れを持っていたのだ。なるほど成人した三島は女装癖こそ持たなかったとはいえ、女への愛憎は根深く、また三島は演技することによって、そしてその演技に喝采を受けることによってしか、生の満足感を得ることができなかった。ぼくはおもう、三島の全作品は役者としての三島がすべての役を演じる華麗なるショウなのだ。三島の自決をおもいだすときさえも、(そして三島なりの理路に共感こそできないものの、それでも一定の了解をしながらなお)、ぼくの耳には公威少年の声が聞こえてくる、「天勝よ。僕天勝よ」
●