見出し画像

後出しじゃんけん大勝利。フランス料理盛衰記。

フランスレストラン料理はいかにして20世紀初頭世界1の美食の座を獲得し、そして1973年、料理人たちを芸術家にし、料理を個人様式にして、そんな100年を経て、いったいどういうわけでいまのような(ともすれば)へんてこりんな前衛芸術(?)になっていったでしょう?



このことを理解するには19世紀末まで遡る必要があります。野心家のホテル創業者リッツはパリ、ロンドン、ひいてはマンハッタンに豪華絢爛なホテルを作ってゆくにあたり、世界の名だたる王侯貴族たちに向けてフランス料理を世界1の美食として売り込むことを考えた。これはそうとう大胆な野望でした。なぜなら当時のフランス料理はたとえばソースとてベシャメルとアメリケーヌとデミグラスしかない素朴な時代。おそらく当時のヨーロッパ人たちにとって、世界一の美食はロシア料理と考える人が多かったでしょう。そもそもフランス料理が、冷製オードヴル、温製オードヴル、魚料理、肉料理、デセールのような時系列サーヴを採用したのは20世紀に入ってからロシア料理のスタイルを踏襲したもの。またあの世紀末のウィーンの料理がすばらしくなかったわけがありません。ハンガリー料理でさえもフランス料理ごときに下に見られる筋合はありませんでした。


しかし、そんな時代にホテル王リッツは、かれの右腕 料理人エスコフィエに命じ、フランス料理5000種を超える料理台帳『料理の手引き』(Le Guide Culinaire)をこしらえさせます。もちろんたくさんの共同執筆者たちの協力があったことでしょう。それぞれの料理にはかんたんなレシピが添えられています。たとえばフォン(ソースの土台とする各種肉骨の水煮ダシ)の取り方などはいまでは信じがたい部分もありつつも、ただし、すべてはこの本からはじまった、そんな歴史的意義はまったく失われていません。しかも当時すでに加熱方法の分類もぬかりなく、料理を記述する方法も確立されています。

同時に、リッツはエスコフィエに厨房の合理的運営案を考えさせました。厨房は、ガルド・マンジェ(オードヴル担当)、ポワソニエ(魚料理担当)、ロティシエール(肉焼き担当)、ソーシエ(ソース担当)、パティシエ(菓子担当)、ブーランジェ(パン職人)・・・というように現在まで踏襲されるフォーメーションを備えるようになりました。こうしてフランス料理の厨房は軍隊さながらの組織になります。フランス人の理屈っぽさ、官僚制、そして美食への情熱。この三位一体によって、そして絢爛豪華なオテル・リッツの威光も浴びることによって、フランス料理は後出しじゃんけんに大勝利します。


もっとも、当時のフランス料理は、他のさまざまな国同様、料理人たちは誰もが知っているスタンダードナンバーな料理を競い合って作っていたもの。料理人たちは地下の蒸し暑い厨房で赤ワインを飲みながら朝から夜中まで働き詰めの肉体労働者でした。料理人を引退する頃には体はぼろぼろです。


いわゆる1968年の社会的騒乱の時期、料理人たちもまた地位向上に立ち上がります。地下の厨房で労働者として使い捨てられるのはまっぴらだ。かれらは自分たちはそれぞれおもいおもいに自分の料理をクリエイトする芸術家であることを宣言をしました。かれらは純白のシェフコートに身を包み、明るく機能的で磨き上げられたキッチンで働き、ときにはダイニングでお客に微笑みかけ、会話を交わしさえするようになります。他方、フランスはなにしろ美食の国ゆえ、賛否両論話題騒然。これはいったいなにごとか??? 奇妙なことが起こっているじゃないか。レストランジャーナリズムはこの騒動で売り上げを伸ばします。しばらく騒然な賛否両論が続いたものの、しかし1973年かれらの主張はヌーヴェルキュイジーヌと名づけられ、かれらは闘争に勝利します。それは同時に、それまでフランス料理が高級ホテルによってリードしていた時代から街場のレストランがリードする時代への変化をも意味していました。そしてそれからというものフランス料理は料理人の名前で語られるようになります。ポール・ボキューズ、ベルナール・ロワゾー、ジョエル・ロブション、アラン・デュカス、ミシェル・ブラス・・・というように・・・。もちろんそれぞれのシェフはスペシャリテを持っています。たとえばボキュースならばトリュフのびっくりスープ。はたまたスズキのパイ包み焼き(パイの内側には気品あふれるオマールのムースが挟んであります。)ミシェル・ブラスならばガルグイユというように。(ガルグイユは別鍋による塩茹で野菜に過ぎないけれど、しかし30種以上のアンサンブルになって華やかで魅惑的一皿に仕上げられます)。いまはグルメたちは美術館やコンサートへ出かけるように、交通費を使ってそのシェフのスペシャリテを食べにレストランへ行くようになる。ヌーヴェルキュイジーヌ。たしかにこのムーヴメントはエキサイティングで、多くの人たちを魅了し、たくさんのスター・シェフたちを作り出しました。


ただし、それから四半世紀が経つ頃には誰もが気がつくことになります。すでにフランスレストラン料理は個人様式なのだから、世界中の料理人はどこの国で働いていようが誰だって〈自分のフランス料理〉を作ることができるではないか。それはまったくもってそのとおりのこと。それどころかスペイン料理だろうが、中華料理だろうが、インド料理だろうが、流儀を学びさえすればヌーヴェルだろうが、イノヴェーティヴだろうが作ることができる。つまりフランスレストラン料理は自分たちが作り出した芸術家志向によって、その結果フランス料理のアイデンティティを世界中の料理人になかば譲り渡してしまった。じっさい近年話題のイノヴェーティヴフレンチレストランはコペンハーゲンのnoma だったりします。なんて皮肉なことでしょう。


このことと関連しているのかどうか、「ミシュランガイド東京」の格づけもたいそう歪んでいます。ミシュランチームはラーメンやちゃんこ鍋やお好み焼きには目をらんらんと輝かせる癖に、しかし日本人が作るオーソドックスで立派な、夢のようにおいしいフランス料理をなかなか褒めようとはしません。そもそもかれらはよそこの国までのこのこやってきて、ついさっき生まれてはじめて食べた異国の料理に格付けしたりして、いったいなにをやっているのでしょう? もっとも、そんなフランス人たちの屈折した気持ちもわからないではありません。なぜって、フランス人たちは自国の料理文化を高く売りつけることに大成功したあげく、フランス料理は「料理の英語」のようなものになって、結果あまねく世界中のものになってしまった。そりゃあフランス人たちが拗ねてしまう気持ちがぼくらにも少しわかりますね。



Eat for health, performance and esthetic
http://tabelog.com/rvwr/000436613/







いいなと思ったら応援しよう!