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三島由紀夫と7人の女。妻・瑤子さん。

三島と豊田貞子さんとの三年間との恋愛は終わった。貞子さんは上品に、その理由の明言を避け、三島がふたりの経験をたちまち独特の変容をともなって小説にしてしまうことや、三島が公式の場に貞子さんを頻繁に連れ出したことなどをあげ、ふたりの関係は自然消滅したというふうに説明しておられます。



しかしながら、どうやら三島は貞子さんと結婚したかったらしく、しかし、それができなかった無念から三島は絶望にのたうちまわり、一説には、一時は仏門に入るとまで言い出したという(真偽不明な)風聞もあるほど。



いずれにせよ三島は32歳、はやく家庭を持ちたいとあせる。1958年三月に母の倭文重しずえさんが検診のために入院したところ、末期癌と診断されてしまったからなおさらである。もっとも、一カ月後に誤診だったことが判明するのだけれど、三島の縁談はこの三月にはじまっています。お相手は日本画家・杉山寧(1909-1993)のお嬢さん、当時20歳日本女子大英文科在学中だった杉山瑤子さんである。




三島の結婚の条件は以下のとおりである。「結婚適齢期で、文学なんかにはちっとも興味をもたず、家事が好きで、両親を大切に思ってくれる素直な女らしいやさしい人、ハイヒールをはいても僕より背が低く、僕の好みの丸顔で可愛らしいお嬢さん。僕の仕事に決して立ち入ることなしに、家庭をキチンとして、そのことで間接に僕を支えてくれる人」(『私の見合い結婚』)



そして三島は(おりしも『鏡子の家』執筆半ばの)、1958年5月、瑤子さんと婚約を交わす。なお、この縁組は平岡家側の(=三島家側の)判断でいったん破断になりかけたものの、ところが瑤子さんが情熱的に結婚に持ち込んだ。瑤子さんは言い放った、「わたしは三島由紀夫と結婚するんじゃなくて、平岡公威と結婚します。」結婚式は6月におこなわれた。しかし、結婚式の日、両家は互いに口をきかず、仲人の川端康成は両家のとりなしに苦労した。



とはいえ、三島も瑤子さんも結婚によろこび、瑤子さんは大学を中退し専業主婦となり、三島は『鏡子の家』執筆中最後の方で、(原稿料の前借によって)例の白亜の豪邸を建てもする。なお、あの家の装飾は瑤子さんの実家が負担した。以降三島は、仕事仲間の作家や批評家、はたまた家族と懇意の人びとを招待して、定期的にパーティを開催するようになる。そのとき三島は必ず、欧米人のように、瑤子さをパートナーとして扱った。ふたりは仲の良いベスト・カップルを演じた。



しかし、この結婚は三島にとっても、瑤子さんにとっても不幸なことだった可能性が濃厚である。その理由は……。








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