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三島自決後、残された家族の受難。

三島はつくづく困った人だ。自分を誰よりも聡明な芸術家として俗世間を見下す特権的な位置に置いているからやりたい放題。もちろん三島の自我の果てしない増長を阻止できなかったどころか、ともすれば三島をおもしろがって、三島をおだて、持ち上げ、三島に阿諛追従した世間もまた悪いのだけれど、しかしいまさらそれを言ったところでむなしい。他方、三島のあの人騒がせな自決によって、残された家族はみんな不幸になってしまう。



母の倭文重しずえさんは、弔問に現れた福島次郎さんが白い薔薇を捧げたことに対して、「あら、公威は自分の意志で自決したんだもの、赤い薔薇を持ってきてくださったらよかったのに」なんて言い、「わたしは悲しまないの。だってもしもわたしが悲しんだら公威が悲しむでしょ」そして倭文重さんは大学で、阿頼耶識を学ぶため講義を聴講したりする。



父親の梓さんは『倅・三島由紀夫』2巻を書きおろし、文藝春秋から出版に至る。梓さんも倭文重さんも、三島自決後、作家、文化人、政治家、マスコミに翻弄され、苦しめられる。世人はみんな口々に調子のいいことを囀るけれど、しかしほんとうの哀しみは家族にしかわからない。三島を失った家族の哀しみは家族以外には想像を絶する。梓さんも(この本に部分的に登場して発言なさる倭文重さんもまた)三島について書くべきことは書いておくべきだ、という強い意志のもとに本書を書いておられます。ぼくは最初に読んだときは、梓さんのことを文学史に残る毒親だ、とうんざりしたものの、しかし再読三読するうちに、梓さんの気取りのない正直な言葉に、残された親族のおもいをくみ取れるようになりました。なお、この本は話題になって、いまなお三島研究者の必読書のひとつになっています。なお、梓さんは出版後も、散歩途中に用もないのに文芸春秋社屋におとずれ、社員食堂でラーメンを喰ったりして、「文春のラーメンはうまいですなぁ」なんて笑顔で語り、社員を困らせたりします。もしかしたら梓さんはエッセイストとして活躍したかったかしらん? 三島没後の梓さんには(こんな言葉はひとことも発してはいないけれど)「例の傍迷惑な鷹を生んだとんびでございます」みたいな洒脱な物腰があって、おもいがけず文学史の欄外的脇役にされてしまった老人の腰の低い愛嬌を感じます。




瑤子さんは気丈に三島の著作権管理をおこなうようになる。三島が男色者であることを描く著作や映画を日本国内で抹殺したこともあり、三島読者に瑤子さんはとかく評判が悪いものの、しかし三島ほどの大作家の著作権管理は大変な仕事で、瑤子さんの采配は没後の三島評価の維持に多大な貢献をしています。また三島由紀夫文学賞が生れてからは毎回彼女は授賞式にゲストとして招かれた。




三島の5つ下の弟、平岡千之ちゆきさんは外交官。むかしは三島に連れられて歌舞伎を観に行きもすれば、詩を書く少年でもありました。千之さんも三島と同じく東大法学部卒で、外交官として、三島が『豊穣の海』4部作執筆にあたっては、当時ラオス大使館員だったゆえ、取材をサポートなさった。千之さんは外交官の後は迎賓館の館長も務められた。千之さんは三島研究に登場することは少ないものの、それでもWikipedia の平岡千之の項によると、モロッコ駐在員時代に知り合った四方田犬彦さんの伝えるところ、千之さんは生涯三島のおもいでばなしを大事にしていたそうな。(なお、四方田さんは映画史家、ポール・ボウルズの翻訳家、マンガ論者、エッセイストとして知られる人ながら、東大大学院時代には三島由紀夫研究者の佐伯彰一さんに師事した人でもある。)




倭文重さんは長年瑤子さんと犬猿の仲だったゆえ、瑤子さんは三島の没後、倭文重さんを邪険にします。晩年の倭文重さんは用賀の高級老人ホームに捨てられ、孤独な最期を迎える。



息子の平岡 威一郎さんは9歳で父・三島を亡くし、映画監督の市川崑の下で雑用などこなしたものの、結局映画の道はあきらめ、26歳で銀座に宝石屋を開いたものの、長くは続かず、その後作詞家を目指し、作詞家で(坂本龍一さんの『美貌の青空』の詞に顕著なように三島由紀夫信奉者でもある)売野雅勇さんに弟子入りするものの、売野さんに「典雅すぎる」とあきらめさせられる。結局かれは三島関連の本や映画の企画・制作・監修にたずさわるようになる。なお、平岡威一郎『三島由紀夫映画評論集』(ワイズ出版1999年刊)は700ページにわたる大著で、三島研究において重要な一冊です。



三島自決後、おもいがけず家族はそれぞれに生きているあいだじゅう受難を背負わされた。それをおもうとぼくは胸が締めつけられる。







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