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ジャズにとって作曲ってなんだろう? 石田幹雄さんの表現をめぐって。
ジャズは自由闊達なインプロヴィゼーション(=アドリブ)の芸術だ。なるほど、そのとおりではあるけれど。ただし、ジャズにおける作曲についてもう少し考察されていいのではないかしらん。なぜなら、もしも作曲とアドリブを切り分けてしまったならば、音楽表現の可能性は気の毒なほど縮小されてしまうでしょう。
なるほど1950年~1967年あたりのジャズは、当時のポピュラーミュージックのヒット曲を借りてきて、大胆に和音をつけ直し、借りてきたテーマを自由奔放にインプロヴィゼーションすることによってジャズをスリリングに刷新してきた。
しかしながら、他方で、作曲に注目すると違ったジャズ史が見えてくる。デューク・エリントン~ビリー・ストレイホーン、セロニアス・モンク、エリック・ドルフィーは言うに及ばず、チャーリー・ミンガス、レニー・トリスターノ、ビル・エヴァンス、ギル・エヴァンス、カーラ・ブレイ、ジョン・ゾーン・・・。
今年の春ぼくはおもいがけずまさにピアニスト=作曲家と言うべき石田幹雄さんのライヴを聴いて、ぞっこん魅了されてしまって、以来毎月1回ぼくは石田さんのライヴに通っている。石田さんの音楽性をどんなふうに言い表せばいいかしらん。ビリー・ストレイホーン、セロニアス・モンク、エリック・ドルフィー、そしてセシル・テイラーの系譜かしらん、と、ついぼくは言ってしまいそうだけれど、しかし、石田さんはセシル・テイラーにはさして関心がないようだ。
石田さんの作曲は、テーマこそ調性にのっとっていて歌心にあふれたものながら、ただし、代理コードや、代理コードの代理コード、4度和声、必要に応じて和音のなかの音をはぶくこと、はたまた半音階などを駆使して調性をぼやかしもすれば、微分化もして、モーダル(調性的)なテーマを12音的音楽世界の側へ引きずり込みもする。アドリブに至っては、テーマに調性あってこその、逸脱と冒険が繰り広げられる。しかも、石田さんのアドリブは即興でありながら、にもかかわらずまるで変奏曲さながらに構成されている。けっしてあるモードの上を指が猛烈な勢いで行き来するのではなく、むしろ楽曲の構造そのものが揺らぎと変容の連続にさらされるのだ。だからこそスリリングだ。アドリブを聴きながらリスナーはおもう、いったいどうやってテーマに戻れるかしらん? しかし心配ご無用、あらあら不思議、お見事、ちゃんとテーマに戻る。
なお、石田さんらしさはソロやデュオにおいて明解ながら、しかしアドリブのスリルはむしろピアノトリオでこそいっそう味わえる。(石田さんのアドリブは作曲~変奏であり、作曲家にしかなしえないアドリブだ。)トリオにおいて石田さんはベースとドラムスの演奏の上に飛び乗って、まるでオリンピック級の身体演技に相当するプレイを披露してくれる。
なるほど山下洋輔さんはニッポンのフリージャズを世界に知らしめた。渋谷毅さん率いる渋谷オーケストラはセンチメンタリズムと暴力性の共存、そしてディキシーランドからエリントン、モンク、フリーまではば広いジャズ観と、しかも渋谷さんのピアノに見え隠れするショパンやシューマンの影もあってかけがえなくリッチだ。マルチ管楽器奏者の松風鉱一さんの詩情あふれる作曲の才も忘れ難い。渋谷毅オーケストラにはひじょうにわかりやすくシンプルな形にゆきついた無限のゆたかさがある。
そんな常識を肯定しつつ、ぼくは石田幹雄さんをたいへんに贔屓にしています。その理由はおそらくぼくが作曲の可能性にもっとも多くの掛金を積んでいるからでしょう。では、作曲とはいったいどういういとなみでしょう? 実はそんな問いに正解など一切なくて。にもかかわらず、それでも闇のなかを手探りで作曲を続けられる人だけが、真の作曲家ではないかしらん。一流の作曲家とは冒険者のまたの名だ。石田さんの場合はピアニストでもあるから、なおさらである。
石田さんは、なんとも愛らしいお話上手のピアニスト、アルフレッド・コルトーのピアノ・メドッドをさらったことがあるそうな。ぼくは石田さんに訊ねた、「ストラヴィンスキーとバルトークとシェーンベルクでは誰がいちばん好きですか?」すると石田さんは、う~んと言ったまま5秒ほど考えて言った、「ストラヴィンスキーはああ見えて実はつねに音楽的ですよね。シェーンベルクは演る方はおもしろいけど、聴く方はどうかなぁ? バルトークはあんまり聴いていません。むしろバルトークを考察するメシアンの音楽は、ジャズをやる人間にとっては大切な教養だとおもう。メシアンはけっこう聴いてます。」