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焼け跡とゲイ・バー。

「悠一は見分がひろまるにつれ、この世界の広大さに驚いた。」『禁色きんじき



三島由紀夫は東京大学法学部を卒業し、大蔵省に9カ月勤めたものの辞めて、専業作家になる決意とともに『仮面の告白』(1949年)を書いた。あの作品で三島は痛々しいほどウブだった。



ところが三島が世界旅行を経験した後発表された『禁色』(1951~52)においては、すでに三島は手練れのゲイである。まるで三島はゲイになることを決意して、『仮面の告白』を追いかけ、追い越すように、自分の意志でゲイになったように見える。(いいえ、ほんとうの理由はDNAにあるのかもしれないにせよ。)



しかも、この作品には、女への軽蔑、呪詛、復讐という昏い主題がある。もちろんここで擁護賞揚されるのは男であり、男色である。(いくらか不思議なことではある。なぜなら、三島は自分を育てたあの化け物じみた祖母なつをけっして嫌いではなく、また13歳以降ともに暮らすようになった母・倭文重とは恋人同士のようであり、早世した美津子を好きでたまらなかったし、また才能あふれる美女たちと会話を交わしているときあんなにもくつろいで楽しそうなのに。にもかかわらず、どういうわけか三島のなかには女性蔑視、女性憎悪がある。)



なお、ゲイ・バーが東京のあちこちにできるようになったのは敗戦後GHQの占領下である。日本人の3人に1人が家もないどころか、その日の食いぶちさえもろくにない。その上東京だけでも復員兵が80万人。上野のアメ横や新橋駅東口は露天商の集まる闇市(青空マーケット)だった。薄汚い路地では干し魚やふかしイモなどを売る店があるかとおもえば、コメや野菜を売る者もいた。米軍から横流しした古着やココア、レイヴァンのサングラスなど売る店もある。サッカリンや石鹸を売る知恵者もいた。甘酒麹と蒸米と水を混ぜて発酵させたドブロクを蒸留したカストリ焼酎もよく売れた。これは3合飲んだら腰が抜けると言われたもので、これが転じて、小資本で雑誌を発刊したものの3号でつぶれたりするものはカストリ雑誌と揶揄された。



GIが運転するジープが東京をぶっ飛ばす。かれらはストッキングや口紅はたまたチョコレートをプレゼントして、かんたんに日本人の愛人を作ることができた。若い女たちはGIに性を提供し、カネをかせいだ。ストリップ劇場も流行した。1947年には雑誌『奇譚クラブ』も創刊し、SM、男色、女相撲、果ては切腹プレイ(あくまでもプレイであって、よほどのマニアだけがおこなったもので、腹部に軽くメスを入れ少し血を流すことに興奮する性的遊戯)など特集した。これが笠木シヅ子の『東京ブギウギ』の時代である。





三島は赤坂見附にあった将校向けの高級キャバレー「ニュー・ラテンクォーター」でモンキーダンスを踊りもした時期を経て、お気に入りの店はよそへ移った。銀座五丁目、表通りの一本裏にあった「銀座ブランスウヰツクウィック」である。店名のBrown's Wickは〈燃え焦げて茶色くなった蝋燭の芯〉という意味ではなく、おそらく俗語Wicking に由来し〈性別を問わず眠っている誰かの口のなかに、興奮した自分の男性器を差し込む行為〉のことでしょう。余談ながら"dip the wick"は男性器を女性器もしくは男性のほぐした肛門に挿入すること。いやはや、わかる人にだけわかる変態たちを誘惑するとんでもない店名である。老いも若きも男たちだけがこの店に集まった。淫靡な親密さと昏い同類意識が溶け合ったふんいきが、光と闇のなかに漂っていた。


経営者はケリーと呼ばれる日本人。大きな水槽があり、壁には闘牛のポスターが貼られ、きらびやかな照明と暗がりを残したコントラストがドラマティックで、しかもギャルソンは息を飲むほどの美少年揃いだった。安部譲二は店の用心棒だった。26歳の三島はこの店に通い詰めた、編集者や知人を連れて。もちろんかれらはおもった、小説どおりほんとに三島はゲイなんだ! (余談ながら三島は1966年に安部譲二の27歳までの人生を描いた『複雑な彼』というエンターテイメント小説を発表しています。1966年と言えばすでに三島の右傾化がはじまっていて、しかも『憂国』をみずからの監督・脚本・主演によって28分の短編映画に仕上げています。なぜ、この時期に安部譲二を主題にしたエンターテイメント小説を書いたのか、これもひとつの謎です。他方、三島の12歳年下である安部譲二は、1986年『塀の中の懲りない面々』という本物のヤクザだった自分の過去を主題にした自伝的小説を発表してベストセラーになった。)



「銀座ブランスウヰツク」で三島はかれが「天上の美」と讃美する十歳年下の少年歌手に出会う。丸山明宏(現・美輪明宏)は16歳の美少年歌手だった。なお、「銀座ブランスウヰツク」は『禁色』に登場するルドンのモデルになった。



その後、丸山は開店したばかりの銀座7丁目シャンソン・カフェバー、110席の銀巴里に移り、三島もまた丸山を追いかけ銀巴里に通った。なお、戦後の日本は空前のシャンソン・ブームで、少し後のことながらダミア、ジョセフィン・ベーカー、イベット・ジローが来日します。
銀巴里では、丸山の他に金子由香利、戸川昌子、岸洋子らが専属歌手として歌た。三島が『禁色』を執筆した時期から数年後からのことながら、まだ少年の面影を残すなかにし礼は歌手たちにシャンソンの訳詞を提供するようになる。



当時銀巴里にはさまざまな文化人が集まった。岡本太郎、江戸川乱歩、三島が連れて来た川端康成、遠藤周作、吉行淳之介、菅原文太・・・、野坂昭如にいたっては、客だったはずがいつのまにかステージに立って歌いはじめたほど。



あるとき三島は丸山の独創的な衣装に苦言を呈した、そのとき丸山は自分の衣装に込めた意図を語り、返す刀でさらりと「三島さんの恰好こそ退屈よ、毎日同じ格好をしてらして、服の方だって飽きてるんじゃないかしら」と言い放った。そのとき三島は実はおれも皮ジャンとジーンズを着たいんだと漏らし、後日丸山は三島をアメ横に案内した。また、三島がステージで歌を歌ったり、また映画に出るようになるのも丸山明宏の影響だった可能性がある。





この時期の三島は、祖母や両親の意向に沿うように育ったかれの、遅れて来た反抗期だった。20代後半の三島はいきなり精神を解放され、不良になるため、ちんぴらになるため、そして誇り高い男色者になるために惜しみない努力を捧げるようになる。






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