園子との失恋。長らく抑圧してきた女性憎悪の噴出。女への復讐のため男色者になる。『禁色』
「悠一は見分がひろまるにつれ、この世界の広大さに驚いた。」『禁色』
はじめて『禁色』を読んだとき、これは文字で書いたレディース・コミックであり、ボーイズ・ラヴものではないか、とぼくは驚いた。いいえ、順を追ってお話しましょう。
三島の価値観はともすれば世間と衝突する。なぜ衝突するでしょう? 三島は美に最上の価値を見ていて、自分自身を美を体現する言葉の芸術家と見なしています。しかも、三島は美の創造者であるエリートの自分は俗世間を見下す権利があるとさえ信じています。なるほど、三島が生きた時代はいまとは比べられないほど文学が高く価値づけられていたがゆえ、三島は一定数の支持を得られはしたでしょう。
しかしながら、いかに極上の美であろうとも、美は真/偽とも、善/悪とも無関係です。政治、経済、人権、治安、福祉の論理が重視される社会にあって、美はせいぜい限定的な価値しか持ちません。また、小説をもっぱら美の価値だけで判断することもまた、一面的価値判断に過ぎないでしょう。すなわち、三島は見事に、美という限定的世界の王子になりおおせたものの、しかし、その世界はしょせん好事家たちの閉域に過ぎません。ところが三島はこの現実が許せない。三島は美の体現者、美のエリートとして、あろうことか社会全体を断罪したいのである。
三島のこの不穏な論理が顕著に表れているのが、『金閣寺』(1956)です。そのロジックは次のとおりです。「日本文化を象徴してきた金閣寺は、しかし敗戦によって、そしてGHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって、國體(=国体。日本国家を支える精神的支柱、かみのみち、やまとだましい)を破壊された日本にとって、もはやなんの意味があるだろう? もはや金閣寺は日本の美を象徴する資格を失ってしまった。無用の美と化してしまった金閣寺などに用はない。燃やしてしまえ!」これを狂人の論理と言わずして、なにを狂気と呼べばいいでしょう。なぜなら、そもそも真/偽、善/悪、美/醜は別の審級に属しています。にもかかわらず、三島は、実在する金閣寺に対して、芸術の論理(もはや金閣寺が美の象徴性を喪失してしまったこと)を盾にとって、放火魔を、そして犯罪を肯定してしまう。
三島のこの狂気の論理は、『金閣寺』に先立って、すでに〈女性憎悪/美青年讃美〉小説『禁色』(1951)に現れています。耽美的な文体を誇り名声を勝ち取った老作家・檜俊輔は65歳を迎え、美しい作品を量産してきたにもかかわらず、しかし本人自身はもはや老残に過ぎない。残された時間もけっして永くはない。この老作家・檜俊輔は3回の結婚の失敗によって女に絶望しています。(最初の妻は泥棒だった。2度めの妻は狂人。3度めの妻は無類の尻軽で、愛人の若い男と海に飛び込み心中した。)なお、檜俊輔は永いあいだ女を呪って生きてきたにもかかわらず、しかしそんな本心をけっして作品のなかでは読者に気づかせはしなかった。さて、檜俊輔は自分に懐いているコケットリーを自然と身に着けている天真爛漫な少女、康子を介して、康子の友人である絶世の美青年、南悠一と出会う。南悠一はあらゆる美をそなえた青年だけれど、しかし、かれは女を愛せない。そこで檜俊輔はおもいたつ、この絶世の美青年、南悠一を使って自分を裏切り続けた女たちに復讐を企てることを。檜俊輔は不吉な微笑みを浮かべる、「悠一の助力を借りれば、百人の女たちを尼寺に送ることもできるだろう。」
この小説『禁色』は、老作家・檜俊輔が美青年・南悠一を使って、これまでの人生で檜俊輔を翻弄しつづけてきた〈女〉の価値を棄損することを小説を動かしてゆくエンジンとしています。つまり、美の世界においては、いかなる美女とて、図々しくも偽の王位に君臨しているに過ぎない。真に王位につくべきは、〈アポロンの如き美青年〉なのだ、まずはクーデターを起こし、女を美の王位の座から追い落とせ、という主張である。すなわちこの小説は美のヘゲモニー闘争なのである。
したがって、この作品には、冒頭にて文学史上稀に見る〈女〉への壮絶な呪詛が開陳されます。少し長いけれど、老作家・俊輔の女性憎悪がいかなるものであるか、引用しましょう。
「女は子供のほかに何も生むことができない。男は子供のほかの凡ゆるものを生むことができる。創造と生殖と繁殖はまったく男性の能力であり、女の受胎は育児の一部分にすぎない。これは言い古された真理だ。」
「女はいたるところに生存していて、夜のように君臨している。その習性の下劣さはほとんど崇高なほどである。女はあらゆる価値を感性の泥沼に引き下げてしまう。女は主義というものをまったく理解しない。”何何主義的”というところまではわかるが、”何何主義”というものはわからない。主義ばかりではない。独創性がないから雰囲気さえ理解しない。わかるのは匂いだけだ。彼女は豚のように嗅ぐ。香水は女の嗅覚に対する教育的見地から男性の発明したものだ。そのおかげで男は女に嗅がれることから免れる。
女の持つ性的魅力、媚態の本性、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証明である。有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれなければならぬことはなんという損失であろう。男の精神性に加えられたなんという汚辱だろう。女に精神というものはないのであり、感性があるだけだ。崇高な感性なんていうのは、噴飯ものの矛盾であって、出世したさなだむしというに等しい。母性がときどき展開してみせるびっくりするほどの崇高さも、実は精神とはなんの係累もないものだ。たんなる生物学的現象にすぎず、動物の犠牲的愛情となんら質的差異のないものだ。」
そして三島は描写する、「俊輔の日記にの一部には、かんたんな女陰の絵の上に、大まかに消印の×を書き殴ったものが二三あった。かれは女陰を呪詛していた。」
ぼくはおもう、三島はどんくさい女・園子との恋愛に失敗し、園子に去られた悲しみと地団駄踏むほどの悔しさをきっかけに、長年抑圧し続けてきた女への呪詛が噴出したのである。これまで長いあいだ自分が祖母なつに、13歳からは母・倭文重さんに抑圧されながらもなんとかして彼女たちを傷つけまいと彼女たちにかしずき、彼女たち好みの良い子を演じてきた。しかし、園子への怒りがきっかけとなって、いま26歳でその我慢の蓋が一気に吹っ飛んで、長年ひそかに醸成してきた〈女〉への呪いがここぞとばかりに撒き散らされているのだ。
ところが、この小説はおもいがけない展開を迎える。美青年・南悠一はもともと女を愛せない性格ゆえ、老作家・檜俊輔に命じられるがままに、女たちを翻弄してゆくなかで、同性愛者としての自己を確立してゆくのである。
三島が『禁色』で導入した論理はいかにも奇妙だ。なぜなら果たして男は女に失望し、女を呪って、ゲイになるものだろうか? むしろゲイはもともと男に惹かれ、抗いがたい自分の欲望に導かれてゲイになって、ゲイである自分自身に夢中であるがゆえ、おのずと女をかるく揶揄し軽蔑するようになるものではないかしら。しかし、三島は違う。三島は祖母、母に自分勝手に育てられ、園子に傷つけられたことに起因する〈女〉への復讐を成就するため、男色者になることを決意し、堂々たる男色者になりおおせるのである。『禁色』にはその成果が得意げに示されています。
なお、三島はコドモの頃から最期の『豊穣の海』4部作に至るまで、すべての作品を発表に先立って母・倭文重さんに見せていた。『禁色』の冒頭部におけるライト・モティーフともいうべき女性憎悪の章を、いったいどんな表情で倭文重さんは読んだだろう? ここに三島のサディズムを見ずにはいられない。この母子、やっぱりなにかがおかしい。
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