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平等と均一は違う
明治維新から、日本の文明は
均一化
をめざしていたようです。建前としての「平等」を、一つの枠に揃えて、均一化することで
四民平等の世界
と言い、さらに昭和の敗戦後に
華族・士族等の身分制度廃止
で平等社会になりました。
しかしながら、実際に行われたのは
横並びの均一
です。明治の教育が求めたモノは、日露戦争で実現した
大部隊が揃って夜襲できる軍隊
です。当時の多くの軍隊では、夜は指揮官の目が届かないので、サボったり逃げ出したりする兵士が多い。従って、少数精鋭での夜襲しか出来ません。これを可能にしたのが
日本の均一化教育
でした。
これは、昭和の敗戦後も続きます。工場の生産ラインで、均質な作業をする工員の育成のための教育が進みます。
この後「ゆとり教育」では、最低限の達成を求めて、教育水準を落とし
全ての生徒が達成
と言う方向での均一化に進みます。
さて、大学等の高等教育では、個性を伸ばしているのでしょうか?
これには,色々な意見がありますが,私の見るところでは
先行研究の追いかけ
と言う意味では均一の場合が多くなります。また逆に
独自性研究
と言う立場に入れば、そこからでると、全てで失敗という扱いになります。
しかし、現在は多様性を求めるようになりました。
どの道を歩いても
人間としては平等
この原則をもう一度思い起こす必要があります。
人間として生まれた平等を認めて、その上で多様な生き方を認める、これが現在必要だと思います。