古希を過ぎて「和魂漢才」を知る
私の近頃の学び直しは
新潮文庫:山本七平著「小林秀雄の流儀」
の影響が大きい。そこで得たモノは
その時代に棲み込み理解する
手法である。
この手法を、私の心の底にある
和魂漢才
の理解に適用してみた。
「和魂漢才」は、一説によると菅原道真が作り、辞書的な解釈では
学問から得た知識と実生活上の才知の意で
総合的な判断力をさした語
中国の学問を学んで
それを日本固有の精神に即して消化すること
となっている。今までは、これで解った感じがしていた。しかし、これをもう少し踏み込んで、理解していきたい。
まず、一つ目の話は
日本の古代には話し言葉しかなく
文字は後から輸入された漢字に始まる
と言う状況である。つまり、聖徳太子の時代には
大和言葉を歌など口承で伝え
文章は漢文で記述する
という、コミュニケーション法であった。もう少し言えば
感情の表現は口に出す歌
論理的文章は漢文
である。
ただし、ここでの論理的は
私達が思う論理
(西洋文明の数学的論理)
ではなく
比喩などが主体の東洋論理
である。一例を挙げれば
法華経は譬え話ばかり
と、現在の私達のセンスでは、論理的とは感じないだろう。しかし、当時のレベルでは
比喩も立派な論理
というか
それしかない
と言う状態であった。こうして
感じたモノをそのまま歌う
から
比喩を通じて考える
方法で考えれば
人の成長を草木の成長で喩え
慈悲の水と智慧の火で育てる
等という発想で、物事の一般化が行われる。これが
漢才の力
だった。なお、比喩の材料として、論語や易経などの中国の古典や、お経の物語が使われていた。
さて、「和魂」については、もう少し深く考える必要がある。このため
魂とは何か?
を考えた。まずは
意識と心は違う
ことを、明確にしないといけない。例えば、六根清浄大祓には
意(こころ)に諸々の不浄を思ひて
心(こころ)に諸々の不浄を想わず
とある。つまり、感覚の一つである「意根」で、不浄なことを思うのは、目で汚いモノを見ると同じで、心から不浄なことを想わなければよい。
このように、意識のレベルの底に、自我に関わる感情的なモノや、阿頼耶識にある種々の蓄積までを含めて、心つまり魂である。
このように考えると
和魂は実生活の才知
と単純に言っては行けないと思う。私の想う「和魂」は
自分の心を作り上げた全て
であり、その上で
色々と学んだ知識と
それを使った思考を才とする
のが
和魂漢才
だと考える。
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