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なぜそれを撮るのか


もし未来のカメラが全天球型の360度カメラで、撮った後でそのときの風景から好きな向き・好きな画角・好きな撮影設定で画像を取り出すことができたらすごく便利だろうと思った。

決定的な瞬間も瞬時に判断することなく、とりあえず撮るだけ撮っておいて、あとからのんびり好きな画角で写真を切り取ればいいのだ。

でも一方でそれってナンセンスだよな、と思う。どれだけ下手でもいいから、その画角をそのとき「私が選び取った」ことが面白いって思う。子供がイチョウの落ち葉を拾って手渡してくれるときみたいに、それがどれだけ歪で下手な選択だとしても、誰かがそれを選んで、人に見せたいと思ってシャッターを切ったということが面白いと思う。

だから性能が高くて素晴らしい構図で撮られた美しい写真ももちろん良いけれど、同時にトイカメラで撮ったような汚い画質の下手が画角の写真もまたすごく面白くて愛おしいのだ。


僕はスナップで道を歩いていても圧倒的に植物の写真が多い。気づけば植物にカメラを向けている。しかも紅葉とか花とか、一般的にもてはやされる綺麗なやつじゃなくて、普通の街路樹とか雑草を見つけては撮っている。


どうして植物ばかり撮っているのかはわからない。ひょっとしたらそれを知るために撮っているのではないかと思う。10枚だとわからないけれど、1000枚撮っていると自分の興味の方向がだんだんわかってくる。

つまり、カメラ屋さんで店員が初心者のお客さんに対して「何を撮りたいとかあります?」と質問するけれど、何を撮りたいかなんて多くの人は自分でわかっていなくて、なんとなく撮りたいという気持ちに対して後から「何を撮るのか」がついてくるのではないか。



少なくとも植物ばかり撮っているのはわかった。さすがに1000枚くらい撮ったら自分の被写体の嗜好性くらいはわかる。でもなぜ植物なのか、そして植物の中でも雑草なのかはわからない。あと1000枚くらい撮ったらわかるのかもしれない。

あるいはそれが知りたくて写真を撮っているのかもしれない。それはカッコつけすぎかしら。





去年は初めて写真集を作って売ってみたりした。けっこう面白かった。作った時は最高傑作ができたと思ったけれど、後になってから直したい箇所が大量に出てきて、また作りたい、と思ってしまう。


自分は何が好きなのか、それをパッと答えるのは簡単だけれど、それをさらに突き詰めていく作業は(時間はかかるけれど)奥が深くて面白いと思う。



今日はここまで。

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