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生き残った人たちまでも殺そうとするのだ

ノーベル文学賞というのはとてもありがたい。それは全く知らない国のまったく知らない作家の本を手にするきっかけを与えてくれるから。もちろん出版社もそれを機に翻訳したものを出してくれるというのはとてもありがたいことで、昨今の本離れ、特に海外ミステリファンの私としては、海外ミステリの翻訳も急激に減っていることを実感するだけに、こういった機会で海外ものが手に取れるというのは実に感謝であります。

今年は韓国の「ハン・ガン」氏が受賞者で、最近は韓国の作家が良く翻訳はされているのは書店で見かけますが、「ハン・ガン」氏は読んだことがないので、図書館で予約すると最新刊の「別れを告げない」を幸運にも貸出いただけました。

また同時に「隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ」(斎藤真理子)も借りることが出来ました。これは以前勧められていたので別に予約していたのが、たまたま同時に借りれたものですが、お分かりのように「斎藤真理子」さんは「ハン・ガン」さんの翻訳者でもあります。「隣の国」ど「ハン・ガン」さんを紹介している所の一部です。

「ハン・ガンは、社会と個人が体験する傷と、その回復の過程を描いている作家だ。
ハングルの森、クルの森にこの作家はいて、その森は閉じていない。翻訳するためにその森に入っていくとき、私は無意識にもうひとつの扉も開けておくようだ。マルにもクルにもなる前の、それでも日本語とちがっている骨、朝鮮語の骨みたいな何かを、感知しておきたいので。
人間には、マルにもクルにも託せないものがあって、ハン・ガンはそのことを知っているからこそ小説を書いているのだと思う。マルとクルの奥にひそんでいるものがたくさんあるからだ。」

マルは言葉、クルは文・文字です。「別れを告げない」森に踏み込んでみようと、いつものように並行して読んでみました。

その「隣の国」を読み始めてとても驚いた箇所がありました。これは韓国で起きたセウォル号事件について作家の「キム・エラン」氏が書いた言葉

「最善」を尽くすと言うのを聞いた。「最大限」努力するという言葉も。「すべて」を動員するという約束も聞いた。一回や二回ではなく、何回も繰り返し聞いた。もっともらしい言葉は、主に「上」から下りてきた。そこには副詞や形容詞、述語や抽象名詞はたくさん使われていたが、時制は不明で、動詞や主語、固有名詞はほとんどなかった。続いて聞こえてきたのは「責任」という言葉だった。「積弊」という言葉、「厳罰」という言葉も登場した。ところがその言葉を最後まで全部聞いても、いったい誰が何に対してどのように責任を取るというのかわからなかった。

これ我が国の「真摯」とかの乱発に重なりますし、丁度選挙運動中だけに「副詞や形容詞、述語や抽象名詞」の乱発と「動詞や主語、固有名詞」の欠如は演説の内容そのものです。

また「隣の国」では「キム・エラン」氏に続けて「シン・ヒョンチョル」氏の言葉があり、その中にタイトルにもした

「自分の子どもが溺れて死んだのに、その真相を知ることができず、死体も見つからないとき感じる感情とか。人間は無能だから完全に理解することは不可能で、人間は意気地がないので一時的な共感も徐々に薄れていく。だから一生の間にすべきことが一つあるとすれば、それは悲しみについて学ぶことではないか。他人の悲しみに『もううんざりだ』と言うのは残酷なことだ。政府が死んだ人を再び殺そうとするとき、そんな言葉は生き残った人たちまでも殺そうとするのだ。」

太字にしたのは私ですが、強く訴えかけられます。

ノーベル平和賞の被団協の人や支援者に対しても「知ってるよ、もううんざりだ、もういいなさんな」というような言葉はいまだにある。ここにも書かれているように「そんな言葉が生き残った被爆体験者たちまでも殺そうとするのだ」に重なります。

「別れを告げない」は済州島の虐殺事件が題材ですが、去年見たヤンヨンヒさんのドキュメンタリーと重なります。訳者あとがきでも触れられていました。


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