#94 「伝わることば」を産む苦しみ
文章を「伝わる」ものにするのは難しい。
自分は「伝えている」つもりでも「伝わっていない」ことはいくらでもある。
以前(高校教師だった頃)、企業向け雑誌のコラムに寄稿するための第一校が、書籍編集を手がけているA氏の手にかかり、いく度となくダメ出しをくらった。
しまいには
「 これは漢字ではなく平仮名で書いてください 」
「この言い回しは独特すぎて真意が伝わりません」
とたたみかけてくる。
うむ~、手強いな・・・・
校正作業が二校、三校と重なっても書き直しがあるという二重苦、三重苦を味わった。
独特の言い回しを使う癖があるのは自覚していたけど、むしろ意識的にそうしていたし、それが個性だと思っていた。
いろんな指摘を受け、書けば書くほど自分らしさが失われていくような感覚に襲われた。
編集のプロは日々「伝わる」ことに心血を注いでいる。
それで飯を食っているのだから厳しいのは当たり前と言えば当たり前。
執筆者が教師・研究者であろうが、評論家・文筆家、小説家あろうが容赦なく赤が入る。
読み手の心理、読解力等を考慮しながら厳しい目でチェックを入れてくる。
A氏は「伝え方に正解はない」と言う。
だったら、私の文章はもうこれで十分じゃないかと思ったが、A氏は続けて言った。
「でも、原則はあります」
「伝えたいメッセージ、伝えるべきメッセージは何ですか?」
「ターゲットとなる人たちってビジネスのプロですよね?」
「いやあ、そう言われるとアレなんだけど、これを伝えたいんだよね・・・・」
「それって納得してもらえますかね? 共感は得られますか?」
「先生、ここで妥協しちゃいます? ボクは構いませんけど」
煽り方もプロフェッショナルか?
「妥協」と言われたら悔しい。
「いや、そう言われるとアレなんだけど・・・・時間くれる?もう一度考えてみるからさ」となる。
文章力・表現力以前に、根本的なところをスバリ指摘され、うろたえる自分。
確固たるメッセージが定まっていることが「伝え方」の本質だと言われた。
そのときは高校教師をしていたので、生徒の大学受験の小論文指導や課題研究のレポート提出で、ずいぶんと厳しい指導をしていた。
よもや自分の文章にバンバン赤が入るなんて思ってもいなかった。
自分自身に驕り、慢心があったのだろう。
文章ではなく、口話によるコミュニケーションであったとしても同じだ。
メッセージ性とは「何にフォーカスするか」で決まる。
それが、魅力となり「伝える」から「伝わる」になるのだろう。
学生達にそんな経験を語ったら、授業感想ミニレポートに次のようなことが書かれていた。
「先生のような方でも、まだまだ修行が足りないとおっしゃるのだから、私なんて、底辺の地べたを這いつくばっているレベルだと思いました。
良い文章をお手本にしてトレーニングし、少しでもよい卒論が書けるよう努力します」
優秀な学生の言葉だ。
自分も謙虚でありたい。
学術論文は、それはそれで定型に基づいた書き方がある。
それでも、「自分が伝えたいメッセージ」は何かということが問われるのだろう。
いや、それにしても難しい。
文筆業で飯を食っているわけじゃないが、おそらく一生鍛錬が続くような気がする。
学生たちと共に学ぼう。