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#338 文章修行と谷崎潤一郎
男である私は、普通の刺激に飽き足らず、美しく女装して町に繰り出すことによってナルシシズムを五感で満たす恍惚の体験をしたのだった。
いや、チンパンジーの私がではなく、谷崎潤一郎の『秘密』の主人公がだ。
中学生の頃、家にあった日本文学全集を読み漁り、何気なく手にした谷崎文学の耽美な世界に大きな衝撃を受けたのだった。
『刺青』『細雪』『白日夢』『痴人の愛』『卍』
どれもこれもドキドキしながら読んだことを覚えている。
中学生の自分がこんなものを読んでいいのだろうか?
読んだことが親にバレたらまずいんじゃないか?
なんでこんな本がウチにあるんだ?
父も母も倒錯した性行動に走っているのか?
・・・・などと、あらぬ妄想が膨らんだ。
フェティシズムに溺れる男、両性愛、マゾヒズム、奔放な性行動、淫靡で倒錯した世界。
言葉のひとつひとつを辞書で調べて興奮していた少年である。
以前に紹介したアンガス・フレッチャー『文學の実効 精神に奇跡をもたらす25の発明 』にも書かれているとおり、人は文学に救われ自分の人生を紡ぐことに心を向けようとする。
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私の記事は新聞と一緒で「読み捨て」が基本なので、すでに成仏してもらっている。
記事は削除してもログとして残っているので、そこから一部引用してみた。
私が小説を読み続ける理由は、明確な答えが書かれていないから。
こころが揺さぶられるから。
感性や思考力、想像力を頼りにあれこれと自分なりの答え探しをする。
解説や書評にはない自分の解釈や気付きもある。
「オレは見つけたぞ、ムフフ‥‥」と。
自分だけの答えがあるような気がするのだ。
文学が好きな割にその良さを言語化して誰かに伝えるという努力をしたことがない。
誰かと思いを共有したり、みんなにお薦めの本を紹介したくて図書局員になるとかコミュニティでワイワイガヤガヤやるタイプでもなかった。
ご覧のとおり、評論するほど文章力が長けているわけでもない。
フレッチャーは本書において「文学は精神に作用するテクノロジーだ」 と述べている。
精神に奇跡をもたらす文学による25の発明を25の章立てにして文学の実効を述べてている。
文学は科学とは異なり、主観が入り込んでいる。
フィクションは客観性・現実性に乏しく「所詮はつくり話」と感じて敬遠する人もいる。
VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)が深まるこの時代に生きる私たちは、どのようにして物語を紡いでいけばよいのだろう。
それもまた文学が答えてくれる。
文学の講釈はともかく、文学は面白いから読むのである。
良書・良作に巡り会うためには、作品に対して「がっかりする」こともまた通るべき道。
人生も同じだ。
さて、寄り道しすぎてしまった。
谷崎潤一郎の話に戻そう。
個人的には三島由紀夫の美しい文章や言葉のチョイスが好きなのだが、谷崎潤一郎の文章も美しい。
ほんの一時期とはいえ、淫靡な世界にとらわれていた少年時代から抜け出した私は、SF作家の筒井康隆や山下洋輔(ジャズピアニスト)の文章に憧れを抱いた。
巧妙なプロット、言葉の組合せ方、リズム感など、プロフェッショナルの仕事の流儀が詰まっていると感じたからだ。
谷崎が『文章読本』を出したのは1934(昭和9)年。
その存在を知ったのは私が30代の頃(平成時代)。
読んだことはなかった。
改めて興味を持ったのは、この『文章読本』について歌手の宇多田ヒカルがラジオで語っていたことがきっかけだった。
別に淫靡な文章の書き方を述べられている随筆ではない。
読みたいと思ってから数年がたち、そうこうしているうちに、2016年に谷崎の『陰翳礼讃・文章読本』が出版された。
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ふたつの随筆が合本化されていて贅沢なつくりなのだが、そこへ筒井康隆が解説しているということを知り、すぐに購入した。
読んでわかったことは、私には文章力がないということ。
それでも文章の心得や、日本語の美しさ、たおやかさ、しなやかさは探究し続けたいと思うのだ。