#249 みんな認められたい日常を生きている
学生たちから「面接練習をお願いします」というメールがバンバン入る。
私は多動傾向が強いのでキャンパス内をうろちょろしていることが多い。
もちろん多くの場合、授業だったり、学部の教授会や委員会の会議だったり、図書館での調べ物や出張・外勤もあれば、近所のコンビニで豆大福を買って隠れ食いしたりするなど、なかなか多忙な身である。
学生たちには、何か用事があればスマホに電話するかeメールを送るよう伝えている。
それでも、学生たちの噂では
「チンパンジーセンセーは、いつもどこにいるかわからなくて、どうやったら会えるのだろう?ほんとうにこの大学に実在する人なんだろうか?」
ということになっている。
そもそも「チンパンジー」と呼んでいる時点で「人」として認識していないのかもしれない。
“伝説の教師”ならカッコいいが、もしかしたら「架空の人物」か「お猿さん」として設定されているのか?
「先生、いい加減、みんなに本当の姿を見せたほうがよろしいかと思います」
シルエットで歌うADOみたいだな。
いやいや、授業で会って私の素顔を知ってるだろうに!
彼らにとって私は、授業が終わったら儚く消えゆく幻なのかもしれない。
そう、私は蜉蝣
蜻蛉は不完全変態であるが、幼虫→亜成虫→成虫という半変態と呼ばれる特殊な変態をし、成虫は寿命が短い。
なんて儚い存在なのだろう。
世が世なら私は次のような文を書いているだろう。
調べ物があって図書館に潜伏していた“ツチノコけーわん”を発見した女子学生が駆け寄ってきて、面接練習をしてほしいと懇願された。
これは人生の重要な転換点である。
もちろん、私の人生のことではない。
私はすでにターニングポイントを通過し、迫るゴールをめざしヨボヨボと歩みを進める老人である。
学生にとっては、パラダイム(ものの見方、考え方)の転換点になるかもしれない重要な局面。
もちろん引き受けた。
「じゃあ、今から私の研究室に行って始めよう」
「えーっ、い、今ですか?」
「今でしょ。今だよ、
イ、マ! 今この瞬間から人生を変えるんだ!
キミの命を運ぶのはキミ自身だ。それを運命と言うんだ!」
「わわわっ、わーっかりました!(^_^;)」
面接練習よりも終わった後の時間のほうが長かった。
雑談による対話のほうが、彼女の人生を捉え返すチャンスがたくさんあった。
私たちは常に誰かから評価されている。
みんな評価する人、評価される人である。
悲しいかな、それが承認欲求と結びつかないこともある。
大事にされたり、袖にされたり、興味を持ってもらえたり、反感を買ったり、推す人がいたり、寄り添ったり寄り添われたり・・・・
みんな「なりたい自分」「ありたい自分」を模索し、もがき苦しみ、誰かに認められなければ生きていけないかのごとく、それぞれの道を必死に突き進もうとする。
みんな「選ばれたい」のだ。
みんな「認めてもらいたい」のだ。
そんな話をした。
学生が言った。
「先生、ボンヤリしていた教員の志望動機がより強まりました! 児童・生徒もみんな同じ気持ちなんですね。
私はありのままの自分を出してきます」
「ありのままの自分。いいねそれ! じゃあ、ここで一緒に Let It Go を唄って締めようか」
「ムリです!」
「そうか・・・・まあ、採用試験には関係ないしね。
じゃあ、試験当日はキミの幸運を祈りながら私が歌うよ」
「お忙しいなか、ありがとうございました」
「いや、日本一ヒマな男だからいいんだよ」
他者の言葉から何かをつかみ取るのは本人の読解力と想像力次第。
うるさいことを言えば言うほど、耳は閉じられ心も閉じられる。
賢明な彼女は、私が意図していなかった余白の部分まで読み取ってくれたようだ。
教えられたことを確実に覚えることより、想像力を膨らませて探究することが大切なのだろう。
探し究めよ
研き究めよ
それが選ばれたい日常の生き方なのだと思う。