メンタリストDAIGOの差別発言問題と労働の栄光
「オートメーションのおかげで、おそらくここ数十年のうちに工場から人はいなくなり、人間は、その最も古く、最も自然な労働の荷重と必要の絆から解放されるだろう。…近代は理論の上で労働を栄光あるものとした※…私たちが直面しているのは、労働者の残された唯一の活動力である労働のない労働者の社会という逆説的な見通しなのである」『人間の条件』序文より ハンナ・アレント ※古代ギリシャでは労働は奴隷が行う卑しい行為であった
メンタリストDAIGOの差別発言が問題となっている。問題の差別発言は「働けるか働けないか」を基準にホームレスや生活保護受給者を差別するものであった。これはナチスの優生思想「働けるか働けないか」を基準に人間を選別し、障害者虐殺や強制収容所における虐殺を行なったことに通じる道であり、断じて許してはならない。また、二転三転する反省もマッチポンプ的にニュースになっているが、その内容は生活保護受給者が「頑張っている」「苦労している」といった、案外古くさい精神論・根性論に依拠し、だから自分は間違っていたという展開になっている。しかし果たしてこれらの精神論・根性論で差別を反省し、一件落着とすることができるだろうか。正直この精神論では、時がたち怠惰な人間のことをちょっと思い出すだけで、容易に彼は差別思想の方向へ揺り戻してしまうのではないかと危惧している。私は生活保護の受給は悪い・悪くないという次元ではなく、冒頭で引用したアレントの予言通り、今現在において必要な仕事、労働は実はそれほど多くはなく、これからは働かない、あるいはほとんど働かない生き方がどんどん表面化し、その上で生活保護、ベーシックインカム、アーリーリタイヤといった働かない生き方が見直されていくのではないかと思う。その認識を改めることが差別発想を乗り越えるスタートなのではないだろうか。
コロナで明らかになったように、今の世の中は大量の余剰人員を抱えている。それは単に不景気で物が売れないからという話ではなく「今まであった仕事がこれからは永遠になくなる」という現象があちこちで起きているからだ。今まではブルーカラーの合理化だけであった。今進行している仕事の減少は、プログラミングやAIという仕事をなくす技術の発展により大量のホワイトカラーが入らなくなっていることが大きな要因である。例えばつい先日の8/13日、日経一面で損保ジャパンで4000人分の業務削減の記事が出ていたが、それに対して、それいる?的にでっち上げた仕事が2000人分だったそうだ。他にも副業の解禁が話題になっている。良いことだと思うがそもそも本当にみんな仕事が忙しいならば、副業なんてしている暇はない。あるいは日本でも週休3日の議論が始まっているが、社会全体が忙しかったらそんな議論はそもそも起きるはずがない。「人手不足」というのは、労働力の移転がうまくいっていないことと、今なお必要な仕事に対して人が集まる仕組みになっていないことが要因である。
私は以前転職し、千代田区のきらびやかな高層ビルで「働いていた」ことがあるが、転職してから3年間もの間、本当に仕事がなかった経験がある。実働、1週間で1時間とか2時間とかそういうレベルの話だ。暇すぎて精神を病み酒が手放せなくなった時期だった。笑えるエピソードとしては、後輩が来て仕事を教えろと言われたので、てっきり別の仕事が私に割り振られると勘違いし、自分のわずかな仕事を全て教えたところ、自分の仕事がなくなって職場に居場所がなくなってしまったことがあった。あるいは書類整理をしているおばさんに「仕事を手伝いましょうか?」と申し出たところ、なんとホチキス留めの仕事を独占・属人化したかったのか、おばさんが猿のように歯を剥き威嚇し、その後嫌われるということもあった。ストレスからお腹をよく壊したが、新しく来た上司によく会った。私と同じく、新しい職場で人間関係もない状況の中、仕事もないのに座っていなければならないストレスがあったのだろう。私以外にもどうみても仕事がない人が半分はいたが、どうやって耐えているのか不思議だった。友達もできたので大きな声では言いたくはないが、それを差し引いても地獄だった。マルクス主義者であるがゆえ、誰にでもできる仕事を属人化するということがどうしてもできなかった。
自分の話だけしていてもあれなので、あるいは30年以上前の、国鉄の人材活用センターの管理職でもいい。国鉄末期は、人員の過剰が大問題となった(30万人を20万人に減らしたのだから、経営陣による無計画な採用と無計画な合理化こそ大問題だ)。国鉄のアウシュビッツと呼ばれた人材活用センターには、組合差別で余剰人員として収容された国労、全動労、動労千葉の組合員たちがいた。彼らは廃線になった線路の草むしりなど無意味な仕事をさせられていたという。それもひどい話だが、私が注目しているのはその「意味のない草むしりを監視するのが仕事」という「管理職」が同じく収容されていたという事実だ。組合側は差別と組織破壊攻撃の被害者だが、しかし弾圧されたわけでもないのにこんなところに収容された「管理職」は、どう考えても余剰人員だ。忙しく働いている人間にできることではない。人間集団とは、極限まで仕事がなくなると単に人を排撃するだけでなく人を排撃する「仕事」まででっち上げ、それに飛びつき「仕事をしている」かのように装ってしまうのかと愕然とした。同時に、闘う側の誰も余剰人員である管理職に対する疑問の声が残っていないことにも驚かされている。もちろん、首切り反対を原則に闘う以上敵とはいえ「余剰人員」と認定することはできないのかもしれないが。 また自分の話に戻ってしまうが、これは私の通った大学で引き起こされた事件も同様である。あの忌まわしい事件は少なくとも、やることのなかった大量の職員たちに、学生に四六時中つきまとい、撮影し、罵声を浴びせ、暴力を振るい、人間関係を破壊しようと周囲に脅しをかけ、警察と結託し、なんとかして学生を犯罪者に仕立て上げて退学に追い込むという謎の「仕事」を与える結果となった。鬼畜の所業もさることながら、なぜわざわざこのような命令に彼らが従ってしまったのかということと、なぜ仕事中にこんなにも大量の教職員が無駄な動員をさせられているのか、学生ながらに疑問だった。学生のアルバイトだって、その最中にこんな馬鹿げたことをする暇はない。彼らは訳の分からない理屈をつけて「仕事」に飛びついた。私が所属しているわけでもなければ、入ろうと思ったこともない組織の何十年前の殺人事件を理由として絶叫したりするのは苦し紛れとして分からんでもないが「このフリーター野郎」と、学籍のある学生に顔を真っ赤にして叫んだことはより印象に残っている。世間から表面的にみる分には彼らは国鉄の管理職であり、大手私大の正規職員だ。ピカピカの肩書きである。私も一流企業の高層ビルで「働いて」いた。「労働を栄光あるものとする」価値観のもとではあたかも本人も「働いている」かのように舞わなくてはならない。私も形式的に割り振られた「仕事」を語ることで誤魔化してきた(もちろん仕事内容について他人に深い話はできなかった)。あるいは話しても信じてもらえなかった。そうしてただでさえ毎日7時間の無為な待機時間は苦痛なのに、二重の苦しみを負うことになる。
「労働を栄光あるもの」とする価値観では、無意味な草むしりを監視する管理職の方が、生活保護受給者よりも価値があることになってしまう。若い学生を犯罪者に仕立て上げる陰謀が生活保護受給者よりも価値ある存在になってしまう。だから無意味というより有害な、人を傷つけるという「仕事」に労働者が扇動され飛びつく動機を与えることになってしまう。
ナチスの虐殺、DAIGOの差別、職場内ニートの苦悩、人を傷つける「仕事」を与えられ飛びつく職場内ニート、これらの過ちはアレントの予言通り「労働を栄光あるもの」としながら「労働のない労働者の社会」で起きている悲劇である。
資本主義を批判するマルクス主義は「労働価値説」であり、労働を栄光あるものとする価値観は変わらない。あるいは労働組合の存在の前提も「労働者が働いて社会を動かしている」という自負に他ならないのでこの問題に対して無力だ(例えば職場内ニートがストライキをやったところで何になるのか)。だからこの問題を考えるためには、一度マルクスを「」に入れ保留して物事を考える必要があるとも考えている。差別にも、目の前の弾圧に駆り出されているニートに無関心であってはならないが、マルクスだけでは無関心に陥ってしまう。アレントは労働とは別に仕事と活動、観想を区別しそれらを人間の活動力と捉えるアリストテレスの考えを復権させることで、労働を必要としない労働者の社会という危機を乗り越えられるのではないかと考えた。まだまだ勉強不足で先は見通せないが「労働を栄光あるものとする」価値観をひとまず「」に入れて考えてみることが今回の差別問題を反省し乗り越えていく道になるのではないだろうか。