もっと愚痴ったほうがいいんじゃね?
河合隼雄の本にカウンセリングで父をボロクソに言っていた大学生が、知らぬ間に父に感謝の気持ちを言うようになっていたという話があった。河合は父親から言われてそのことがわかったのだが、河合自身はその大学生からただ父親の愚痴を聞いていただけだという。つまり、「もっと父親に感謝しろ」的な講釈を垂れることはしていないのに知らぬ間に父と大学生の関係が今までより良い感じになったというわけだ。
毎日毎日顔を合わせてたり、一つ屋根の下一緒に生活していると、どうしてもその人の欠点が目につき始める。僕なんかは人の悪口は言わない方がいいんじゃないかとつい無意識レベルで考えがちで心の中で愚痴愚痴言うだけで済ませることがほとんどだ。しかし、先の話を読むと、第三者に愚痴を言うことで当人との”距離“を測り直すことができるように思える。一通りボロクソ言った後で「でもこういうことをしてくれてたな」とか「実は僕のことを気にかけてくれてたんだ」といった新たな視点が出てくる。
愚痴は吐いた方が良いのかもしれない。
しかし問題は誰に吐くかである。
建設的な議論ではなくただ愚痴を言いたいのであれば、本人に直接言うと最悪の場合、関係が修復不可能になったりしかねない。
となると、全力の愚痴を受け止めてくれる友人がいるのが望ましい。が、そういう人は誰にでもいるわけではない。
そうなってくると、次点で候補になるのは河合隼雄のような心理カウンセラーなのではないだろうか。
僕もカウンセラーに政治や仕事、職場のうざい奴、社会システムのクソさ、家の目の前の工事現場の騒音、図書館ではしゃぐ奴、ランボルギーニを吹かすことで自己顕示欲を満たす休日の過ごし方をする公害野郎などのことをボロクソに言いたい。(とにかく僕は音に敏感なのだ)
ボロクソに言えればそいつらの良いところのひとつや2つ浮かぶかもしれないし、自分のことを省みることに繋がるかもしれない。
「ちょっと居酒屋寄って帰るか」くらいの感覚で寄れるくらいカウンセリングを生活に取り込めるような社会になってほしい。