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知らない人との時間を楽しめるか?/行きつけがあること/人の目が気になる心理


最近また人生の気付きが溜まってきたので
ここにて消化していこう。

最初に言っておくとかなり長いです。笑



・よく知らない人と一緒にいることを楽しめない人よりも、楽しめる人であった方が人生は楽しい



これは私のモットーとしていることというか。

「人生が面白くなるには?」
みたいなことを考えたときに、
このことが必要条件な気がする。

例えば。


これはこないだもここに書いたのですが、
美容室などの自分をメンテナンスする場所で
自分の施術をしてくれる方との時間を
楽しいと思えるか?
(🟰楽しく過ごそうという気があるか?)
とか、

急に話しかけられた全然知らない人と
楽しくお喋りすることができるか?とか、

おせっかいなおばちゃんに出会した時に
それをめんどくさいと思わずに
話してみることができるか?とか。

そういうこと。


自分の好きな人とだけ過ごすのはもちろん
ストレスも少なく心地よいかもしれないけれど、

それだけではどうもつまらない、
何かもっと刺激が欲しい!
と思ってしまうのが私だ。


私は基本的に
よく知らない人と喋ってみるということが
好きな人種なのだと思う。


だからタクシーの運転手さんやお店の人とも
簡単に仲良くなったりするし、
飲み屋さんで初めて出会った人と意気投合して
そのまま朝まで一緒に飲むこともある。

いや、本来ならば知らない人のことは
警戒するのが普通だとは思うのだ。
(女性の場合は特に)


でも私は、
よく知らない人のことをはじめから警戒して
人生の機会を逃したくない、という気持ちが強い。


これは、話してみなければその人のことは
絶対に何も分からないし、
話してみて自分とは合わないなと思ったら
離れればいいだけの話で、
最初っから「何この人…」となるのは
もったいないのではないか、という話をしている。


「何この人…」と反射的に思う前に、
まずは喋ってみる。対峙してみること。

それを自分の中にルールとして持っておくと、
人生がみるみる面白い方向に動き出していく。

そう肌で感じている。


これは対人関係以外にも言えると思う。



たとえば、特に用事はないけど
とりあえず家の外に出てみるとか、
入ったことのない路地やお店に入ってみるとか、
全然知らない駅でなんとなく降りてみるとか。


「全く意味はないけれどやってみよう」
みたいなことを適当にやっていくと、
たまに確変が起きて身の回りの様々なことが
大きく変わり始める。

私はこれまでのところ、
人生に対してそんな印象を抱いている。


だから私は、「無駄」と思われることこそ
大真面目にやっていきたい。

よく知らない人やよく知らない場所に
たくさん飛び込んでいきたい。

やったことのないことを経験したい。

それが気力のいることだとも分かっている。

でも、それをしなければ
人生面白くないじゃないか。


人生の何かが、自分の中の何かが、
「なんだかこれから変わってゆきそうだな」
という予感を感じる瞬間が、私は好きなのだ。

だからこそ知らない人とも話したい。

安易に仲良くしたい、というんじゃない。

ただ、
「よく知らないけれどまずは話してみよう」
という気持ちだけは忘れたくはない。

よく知らない人と過ごすのって苦手だな、
苦痛だなと思って過ごすよりも、
割り切ってその時間を楽しんだ方が、
絶対に人生は楽しいのだ。


・「行きつけ」があることの良さ



最近、
行きつけのお店やよく行く場所が増えてきて
それを大変嬉しく思っている私です。

なんだかさっき書いたことと矛盾してない?と
思われるかもしれないんだけど、
それとこれとはまた別の話で。


さっき書いたことは、
とりあえず誰とでも話してみなきゃ分からない、
なんでもやってみなきゃ分からない!
人生で起きるイベントなら
なんでも楽しんだもん勝ちでしょ!
というマインドの話であって、

今書いていることは、
そういう中でも自分と合う人やもの・場所が
見つかる喜びがある、という話だ。



色んな場所、色んなお店を訪れてみることで
様々な価値観に出会い、刺激を受けて、
自分が「変わっていく」ということも
もちろん人生の醍醐味だなと思う。


でもその反面、
その中でも自分のマインドと合致する
心地よい人・場所を見つけるというのもまた、
人生の楽しみの一つだと思うのだ。


最近では私は、
お気に入りのワインバーもできたし
行きつけのカレー屋さんもできた。



そのほかにも、
雨の日にはこのカフェに行くとか、
晴れたからあそこに行きたいなとか、
今こういう気分だからここに行きたいみたいな、
そんな場所が私にはたくさんある。


なんだか癒されたいな〜と思ったら
南国に癒されにいこうとすぐに思いつくし、
楽しく買い物がしたいと思ったら
飛行機に乗って大都市に出れば
それはそれは楽しいショッピング体験ができる。

歴史を感じたければ神社仏閣へ、
いや、わざわざそういうところへ行かずとも
街の歴史を綴る案内板を眺めながら
路地裏を歩くだけで、
歴史を感じるのには十分だ。



それもこれも、
自分の足で色んなところに行ってみて、
自分の目で、耳で何でも体験してみなければ
分からなかったことだ。


自分で色々体験したうえで、
その時の気分に合わせて行く場所を選ぶ。



そして、そういう面白い場所に
何度も何度も足を運ぶことで
そこが自分にとっての「行きつけ」となって
そこでの人との交流も深くなる。


その「行きつけ」の場所に行く途中で、
知らない駅で降りてみたりするのもいいだろう。


「行けつけ」が増えることも、
その道中に途中の駅でふらりと降りてみることも、
どちらも私の人生にとっては大切なことだ。


・「人の目が気になる人」の深層心理



これは最近気づいたことなんですが。

「人の目が気になる人」っていますよね。

なんだかんだ言っても、どう頑張っても、
他人の目を気にしてしまう人。


これって多分、その人自身が
「他人のことを見すぎてる人」なんだろうな、
と最近気づいたのです。

他人の言動を自分の物差しで見て、
もっとこうでしょとか、あんなのおかしいとか。

こういう時はこうしなきゃでしょとか、
もっとこうあるべきとかっていう
自分ルールを人に押しつけては
いちいち他人のことをジャッジしてるから、

自分も他人からそういうふうに
ジャッジされていると錯覚して、
ちゃんとしなきゃとか、良く思われたい、
みたいな気持ちになるのだと思う。


それってね、多分あなただけなんですよ。


私はそうなんだけど、
他人のことなんか結構本気でどうでもいいし、
まるっきり興味ないんですよね。

友人だったとしても
インスタの投稿の内容なんかまるで覚えてないし、
どんなに深刻なエピソードを話されても
それで好き嫌いが変わることはなく、
ふ〜んそれで?別に今あんたが幸せなら
それで良いんじゃない?といったような調子で、
とにかく他人の人生に起きたことなど
ほとんど覚えていられないというか、
そもそも大した興味がないのだ。

そんなに他人のことを覚えているだけの
メモリの隙間がないし、

私は自分の幸せを考えるのに忙しく、
それだけでいっぱいいっぱいなのだ。


これは私以外のほとんどの人間もきっと同じで、
他人のことなんかそうそう興味ないんだと思う。


だから私は、
別に私の周りの人も私に大した興味や関心なんか
持ってないだろうな〜と分かるし、
だからこそ自分の好きなようにやろう!
と思えるんだと思う。


でも、もしも私が他人の言動の一つ一つを
いちいち自分の物差しに当てはめて
ジャッジするタイプだった場合、

相手からも当然そうされると思ってしまうから、
そういうタイプが他人の目を気にしてしまうのは
仕方のないことなのかもしれない。


これ、良かれと思って褒められる時にも
良く感じてしまうことなんだけど。


例えばさ、メイクが可愛いねとか
今日の服装素敵だね、とか言われるのは
すごく嬉しいんですよ。


私が自分のために頑張ったこと、
上手くいったことを褒められるのは
すごく嬉しいんだけど。


でも、「細いね」とか「顔小さいね」とか
「肌白いね」とか、
そういうのってなんだか不思議と
あんまり嬉しくないんですよね。

いや、褒め言葉なのは分かるんです。

でも、どこかモヤモヤした気持ちになる。

この気持ちを深掘りしてみるとこうだ。



私に「細いね」と言うってことは、
この人は他の誰かのことを「太ってるな」と
思っているってことだし、


そもそもそれを褒め言葉として使うということは
「細いこと」🟰「良いこと」という
固定観念があるんだなって分かるし、


私に対して前より痩せたなと思うということは
「前よりも良くなっている」みたいなジャッジを
一回挟まれたんだな、とも思うし、

つまり、

🟰この人は日頃から他人をジャッジする人なんだな

ということにうっすら気づいてしまうのだと思う。


だからなんとなくモヤモヤするのだ。

褒め言葉で言ってくれているのは分かるんだけど
なんだか急に萎えてしまう。

いや、別にいいんだけど。

嬉しくないわけじゃない。

う〜ん、でもなんというか、
日頃からとにかく自分にも他人にも厳しく、
他人の目を気にして生きてきたんだろうな、
ということが分かってしまって、
それでなんとなく辛くなってしまう。


そういう褒め方をしてくる人は総じて、
ルッキズムという観点でも
他人の目を気にしている人な気がする。

細いほうがもちろん良いことで、
細ければこういう格好もできるけど、
でも太っている人はできないよね、みたいな。


深層心理でそういう考えがあることを
露呈してしまっている気がするのだ。

そうではなく、
みんなが自分の好きな格好をして
ご機嫌に過ごしているということが
一番良いことなのではないか。


どんな体型でも好きな格好をするべきだし、
細くても太っていても
それがその人のベストなのだとしたら
(別にベストじゃなかったとしても)
それを他人がジャッジするのはおかしな話なのだ。

そしてそういう人こそ、
自分は太っているからこんな格好はできないとか、
足が太いから足は出せないとか、


自分のこともそんなふうに勝手に決めつけて
見てしまうのだと思う。

他人の言動や体型や身だしなみって、
それがよっぽど道徳に反していない限りは
何も気にならないのが普通で、
それをジャッジして回らないのが普通なんですよ。

たぶん。

えっ、あの人の服装ダサ!とか、
足太いのによくそんな格好できるね、とか、
あのワンピースヨレヨレじゃん!みたいに、

いちいち他人のことが気になる人は、


自分もそう見られていると思い込んでしまう
強力な呪いにかかっているのだと思う。



つまり、
まずは自分の目を変えない限り、
🟰人に対してジャッジすることをやめない限り、


一生他人の目を気にして生きていくしかないのだ。


そうなってしまったらもう、逃れられない。

他人の目とはつまり、自分の目。


以上、最近ぼんやりと考えていた、
人生の気付きでした。

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