見える化の落とし穴。
社会人の間ではなにかとすぐに「見える化」したほうがいいとか、すべきといわれ、なるほど「見える化」によって、誰でもすぐにわかる、わかりやすい、納得を得やすいということで、図解したり、標語的なキャッチフレーズを活用して「見える化」が促進されたように感じます。
この「見える化」を阻むものが「個人情報保護」の問題です。
今日は、「見える化」に焦点を当てて書きます。
数年経った今感じるのは、「自分の頭で考えることができない」ということです。
もっと詳しく言えば、抽象的なことを創造できない子どもが増えたように感じています。
この視点も「サル化する世界」「パンツをはいたサル」等の出版物があるので別途機会にまた書きます。
今日は「見える化」の弊害です。
大人が、「見える化」によって、創意工夫をしなくとも、例えば、デジタルや画像ですぐにわかる世界で生活してきたから、そこには創意工夫は必要がなかったのかもしれません。
みんながみんなというわけではありません。
その恩恵を受ける子どもは、
「こうすれば、どうなるかな?」とか、
「次はこうすれば、いいかも?」といった考えたり、不思議を感じる機会を逸してしまったのではないかとも考える今日この頃です。
数年経った今感じるのは、「自分の頭で考えることができない」ということです。
デジタル世界で、さっとタイプすれば、答えがズラーっと出てきて、あとは選ぶだけ。
ズラーっと出た時に、その中のどれが正しい答えかを考えるわけでなく、なんとなくこれかなって選んで、何となく正解を得ている。
そこに抜け落ちているのが、検証という行為である。
見える化によって、色々と便利になったのは事実かもしれないが、同時に検証することが抜け落ちていることに気が付いていないことに危惧している。
国語を指導している中では特に、高学年ほど抽象的な言葉が増える。
見える化では拾えない、抽象的な語彙をどのように救っていけるかが課題かなと思うのである。
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