場所はいつも旅先だった
いつも、旅先だった。
不安になるのは。
いつも、旅先だった。
なりたい自分になれていたのは。
いつも、旅先だった。
新しい自分を見つけていたのは。
今日は5時間の旅をしよう。
そう決めていた。
娘を保育園に送って行き、息子が小学校から帰ってくるまでの5時間。
それがわたしの旅時間。
お気に入りのリネンの白いワンピースに袖を通し、左胸にブローチを付ける。
鏡に向かって髪をとかしていると、うがいを終えた娘がブローチを指差して言う。
「そのキラキラのやつ、かわいいね。ママがおばあちゃんになったら、えみちゃんにちょうだいね」
おばあちゃんになったらちょうだいね、が最近の娘の流行り言葉のようだ。
自分の遠足に早く行きたくて、ついつい娘の準備を急がせてしまう。
今日のプチ旅行の目的は2つ。
○友人の店にランチを食べにいくこと
○映画を見にいくこと
25℃超えの暑い日になりそうなので、サングラスをかけて車に乗り込む。
開店より少し早く着いてしまったけど、友人は快くお店に招き入れてくれた。
ベトナムやラオスに行ったことはないけれど、これがアジアだよねって感じさせる雰囲気の店は、シンプルとは程遠い。
だけど不思議と調和がとれているのは、いつも受け入れてくれる友人のやさしさと、食べ物を料理に変化させる力があるからなのかも、なんて思う。
メニューをチラリと確認するものの、気持ちは揺らがない。食べようと心に決めていたブリトーを頼む。
以前一緒に働いていたお店で、友人は調理場担当で、わたしは販売担当だった。
彼女の料理は、誰が作ったと言わなくても、彼女が作ったと分かるものだった。
彼女の食べ物への愛情だったり、料理に真摯に向き合う気持ちが料理から溢れていたし、抜群においしかった。なによりも、そのカラフルで元気をもらえる盛り付けは、誰も真似できなかった。
そんなことを思い出しながら、ポツポツ会話をする。
話す時間は短くても、本心にズバッと届く言葉をくれる友人をわたしはすごく信頼している。
次の言葉を探して口を開きかけたとき、他のお客さんが入ってきた。
そこで会話は一旦終わったけど、その言葉が頭をぐるぐる回る。
萎縮しない。
初めて聞いた言葉のように、頭の中で繰り返す。
オーダーしたブリトーにかぶりつきながら、言葉を反芻する。
ブラインド越しに道を歩く人たちが見える。
これからみんな、どこにいくんだろう。何を考えているんだろう。
そんなことを思いながら、ブリトーを咀嚼する。
映画の時間が迫ってきた。また後で戻ってくるね、とお会計をして店を出る。
「場所はいつも旅先だった」
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きっと好きだと思うから、一緒に行こうと友人に誘われたけど、予定が合わず別々に見ることに。伝える相手がいるってなんだかいいなと思いながら、映画館の椅子にもたれかかる。
サンフランシスコ、スリランカのシギリヤ、フランスのマルセイユ、台北と台南、そしてオーストラリアのメルボルンを、旅してる気分になる。
映画を見ている間中、なぜか視界がぼやけていたのは、メガネを忘れたせいじゃない。懐かしさと憧れと、羨ましさと不安が入り混じる。
スリランカに行った友人は元気にしているだろうか
メキシコで出会って、淡い恋心を抱いたフランス人は、まだメキシコにいるのだろうか
オーストラリアで食べたマンゴーのフレッシュさ
ストップオーバーで立ち寄った台北で食べた小籠包は、熱々の肉汁で火傷したっけ
そんなことを思い出す。
*
いつも旅先では、自分を解放させていたように思う。
わたしを知ってる人がいない解放感と不安感。その微妙なアンバランスさを楽しめたのは、若さのせいだったのか。
今はもう、日常を繰り返すことしかできないのか、そんな絶望感に一瞬襲われる。
だけど
映画のラスト、毎日同じ道を80分かけて散歩するオーストラリア在住の男性が言う。
同じ道でも、同じ時間でも
見るもの、聞こえるもの、感じるものは違う。
毎日同じことの繰り返しの中に見つけるささやかな違い。
それを楽しめる余白の時間とゆとりのある心。
そんな日常を楽しむ行為こそ、旅なんじゃないか。
どこか遠くに行かなくても、近くでも旅はできる。
*
そろそろ家に戻らないと、息子が帰ってくる。
友人の店に戻り、キャロットケーキをお持ち帰りする。
切れっぱなしだからといって、おまけをしてくれたその重みに、なんだかウルッとしてしまう。
今日は涙腺が弱いのかもしれない。
車でこそっと開けて、待ち切れずにかぶりついてしまう。
道ゆく人に見られたっていい。
だって、食べたかったんだもん。
気づくのはいつも、旅先。
つまり、日常の延長戦ってこと。
いつでも旅はできる。
5時間の旅で、わたしの心はまたひとつ、ほぐれた気がする。