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夜更けのymoでの学び。生々しさと具体的の違い


あのひとみたいに書きたいなぁって思う。
あのひとみたいな表現ができたら、視点が持てたら
もっと読んでもらえるのかな、いいね!がもらえるのかなって思ったりする。

真似をすることは大事。胸に響く表現ができるようになりたくて、気に入った文章や言葉を書き写して落とし込んでいく。誰かに憧れて。誰かになりたくて。

だけど、矛盾を感じることもある。
誰かに焦がれて真似したつもりでも、どうしたってそれはわたしの言葉になっていく。わたしらしさがどうしようもなく出てしまう。それは良くもあり、悪くもある。

わたしにしかできない表現を見つけたいけれど、
あのひとみたいになりたいとも思ってて、
でもそれはきっとできないことなんだもの。

取り入れた言葉は最初は借り物みたいでよそよそしくても、わたしから出たらすでにそれはわたしの言葉になっているのだから。



先日、書くと共に生きる人たちのライティングコミュニティ「sentence」でのymo会に参加した。

(↑ymo会というのはこの記事に読んだら最後、必ずymoしたくなる&してほしくなるくらいに詳しく、そして熱量高く書かれています)

今回そこに参加したのは一つ理由があった。

なんだか最近自分がチクチクしてる気がしたのだ。
身近な人に、小さいけど尖ったトゲを刺しながら過ごしてる。小さな突起のついたボールが転がるように、あちこちにぶつかって進んでるから、醸してる雰囲気もトゲトゲしてる気がする。
笑顔の仮面を被って日常をやり過ごしているけれど、どこか上っ面。気分が乗らないとはこういうことなのだろうか。

そんな仮面の生活をしているせいか、文章もなんだか上滑りしてるようで、全然納得いったものが書けない。だけど読んで欲しいという承認欲求だけは健在で、えいやっと投稿したのだけど、もちろんそんな気持ちで書いた記事にPV数は伸びなくて、なんだか自分が誰からも必要とされてない存在みたいに思えてきて、なんで書いてるんだっけ?みたいなところまで来てた。

だから不出来な文章だってことは百どころか千も承知だったけど、ymoをお願いしたのだ。

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参加者の皆さんが入れてくれたコメントはどれも的確で、m=もやっとしてくれるところは、わたし自身ももっと掘り下げた方がいいかなと迷いがあった箇所だし、ちょっと遊び心をいれて、ある歌詞をイメージして書いたところにはちゃんと気づいてコメントくれたりと、まだまだ趣味の範囲内のわたしの文章だけど、さすが言葉を生業とし向き合ってる方達はその感度は高く鋭い。

その的を得た言葉の数々は、自分に刺さっていたトゲトゲを、ピンセットでひとつずつ抜いていってくれるような、ちょっと痛くて気持ち良い瞬間でもあった。
他の人の言葉だからこそ気づくことや、わたしより一歩も二歩も、それこそ届かないんじゃないかという距離までいる人たちが、自分の文章を読んでくれて、それに何かを感じてくれて、共有できた時間は尊いとしかいえない。

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今回のymoでの一番の学びは「生々しさと具体的は違う」ということ。

例えば野球部のユニホームは「泥だらけ」という表現が一般的だ。だけど、実際は泥だらけではないらしい。なぜならグラウンドは泥じゃないから。どっちかっていうと砂埃、土埃にまみれた、薄茶色みたいな汚れがつくそう。それは経験した人にしかわからない違い。だけどそこを「泥だらけのユニホーム」という具体的だけど一般的な表現にするのではなく、「土埃まみれのユニホーム」という生々しい表現にすることで、その野球のユニホームはその人だけのものになる。その人だけが書くことができる、自分の言葉を使った表現になる。生々しさとは自分の経験や想いを言葉にすくいあげることなんだと思う。それが自分らしい文章を書くことなんだと気づいた。

わたしが自分の書いた文章が気に入らなかった理由はそこだった。
意識が外に向き過ぎてて、自分に向いてなかったのだ。 

もちろん、論文だったりコラムだったり、相手や客観的な視点を意識して書く記事ならその意識は必要になってくる。でもわたしが書きたいのはそういうのじゃない。

上っ面を拾ってきただけの言葉で構成した文章ではなく、綴っている言葉がわたしの心の奥から絞り出したもの、つまり生々しいわたしを表現する文章だ。

絞り出す作業は結構しんどくて、自分の中に文字通り深く潜ることだから、探り当てたくない過去の遺物まで一緒に引き摺り出してしまうこともある。だけどそれはきっとその時のわたしに必要な言葉だったから、出てきたんだと思う。

前回書いたこの記事は、温かいコメントもたくさんもらったので、もう一度書き直そうと思ってる。でも不出来なこいつも残しておこう。ここをもう少し…って、振り返ることができるから。

誰かに読んでもらいたいって思うと、外向きの文章になってしまって、なんだか収まりのいい言葉を探してしまうけど、わたしが書くのは、わたし自身が書きたいからであって、誰のためでもない。独り言みたいになっちゃうけど、それでいいじゃない。
多くの人には届かなくても、同じような気持ちを感じてる誰か1人には共感してもらえるかもしれないし、その方が嬉しいかもしれない。

実際、あんまり読まれなかった自分的には渾身のこの記事。

結構想いを込めて書いたのだけど、暑苦し過ぎたかなとか、正義の押し付けみたいになっちゃったかなとかぐるぐる考えてしまった。

でもSNSやメールでしかやりとりをしたことがない、でもすごく大好きな薬膳の先生が、「すっごく響きました…!」と言って自分のブログで紹介してくれて、涙が出るほど嬉しかった。

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物理的な距離は遠いけど精神的な距離はグッと近くなった気がして、これが言葉が届くってことなのかなって、バトンを繋いだような気になって、ひとりニヤニヤしてしまった。

想いを込める。
多くの人に読まれなくたっていい。
わたしは自分が納得する文章を、楽しみながら書いていこう。
それが身近な誰かに遠くの誰かに、一人にでも響いてくれたらそれでいいじゃん。

そんな風に思った夜更けのymo。
気づきをもらえて、新たな自分に出会える瞬間は何よりも楽しく、興奮する。

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CHIHIRO|フィンランド好きの物書き
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