「読まれる文章」という称号を手にしたい。創作大賞受賞者:藤原華さんの有料noteのススメ。
台風がやってくる前の予兆だろうか。
窓を開けると、湿度の中にも涼しさを感じられる風が入ってきた。
夜中に雨がふったのか、伸び切った庭の雑草につく朝露がキラキラしている。
そんな風に、今の感覚を昔の記憶と結びつけて、頭の中で空想に浸る瞬間が好きだ。ひとときの脳内トリップ。
物理的には「そこ」にいなくても、感覚や感情は「そこ」に戻れると私は思っている。多分、ドラえもんの「どこでもドア」より速く。
そのために必要なのは「きっかけ」だ。
昨晩の出会いは、「きっかけ」なんて生ぬるい言葉じゃ言い表せないかもしれない。
導火線のような
起爆剤のような
甘いチョコレートかと思ったら中身に激辛唐辛子が仕込まれていたかのような
そんな刺激的なnoteに出会ってしまった。
藤原華さんのnoteは爆弾だ。
心して読まないと火傷する。
私は華さんのnoteを読んで何度も火傷している。
その火傷は、負うべくして負ったものだと思っている。
でも、火傷したって思える自分でよかったとも思ってる。だって、伸び代がありまくりってことだから。
そして不思議なことに、悲しくはならない。むしろ、やる気に満ちてくる。
書きたい、って。
本物の物書きになりたい人なら
読まれる文章を書きたい人なら
伝えたいことを届けたいと願う人なら
絶対に読むべき内容がこれでもかと、ギューっと濃縮されている。
のに、胃もたれしない。
「シャワー浴びてきたの?」と思うくらい、地肌が見えるほど汗びっしょりになった子どもが、ゴクゴクと喉を鳴らして麦茶を飲むように、スイスイと読めてしまう。
物書きであれば、喉から手が出るほど欲しいその秘訣を余すことなく、書ききっている華さんのnote。
その熱量の高さは5万字という文字数からも見てとれる。数が多すぎてうまくイメージできない。
古い表現だとわかってはいるけど、言わせてほしい。
400字詰原稿用紙が25枚で1万字。5万字ということは、なんと125枚。わぉ。
夏休み終了が間近に迫り、子どもの読書感想文の文字数をなんとか埋めようと頭を抱えるお母さん達なら、その凄さがリアルに分かるはず。(もちろん、私も)
それほどの分量の記事を最後まで、飽きさせずに読ませてしまう理由は、没入感だ。
華さんワールドに足を踏み入れたら最後、読み切るまで出られない、というか出たくなくなってしまうのだ。
甘いチョコをくれたら、次はしょっぱいせんべいで、その次はクッキーで、そのあとはポテチで…という風に、「甘い→しょっぱい→甘い→しょっぱい」の無限おやつループが繰り返されるように、どんどん食べ進められてしまう。
いや、読み進められてしまう。
私は子ども達の「ママコール」に負けて、泣く泣く画面から目を離したけど、
もう気になって
気になって
気になって
仕方なかった。
そして翌朝、早起きして読了したとき、思った。
夏の麦茶みたいな文章だ、って。
必要な人に、必要なタイミングで、差し出されているから、読み切ってしまうのだ。汗だくで水分を欲している子どものように。
そして読まれる文章とは、「読まれる」という行為の意味を、ここまで因数分解して考えて表現したからこそ、得られる称号なのだ、とも。
「読む」って、無意識にしているようで、実はすごく意識的で能動的な行為だ。
「読みたい」「読み続けたい」という気持ちの導火線に火がつかないと、最後まで読みきれない。
そう思うと、「書いたものを読んでもらう」って、なんて奇跡的なコミュニケーションなんだろうと思う。
華さんの記事は有料noteなので、これ以上は書かないけど、最後に一つだけ、言わせてください。
なんとこのnote内に、私の記事が紹介されています。
私の平熱は大体36.3度なんだけど、自分の記事が華さんのnote内に出てきて、心拍数が一気に上がって、なんなら体温も上昇して、36.7度くらいになったんじゃないかと思った。
スマホをスクロールする手が、震えた。
これから先、どんな文章を書いたらいいんだろうって悩んだり、何か凹むことがあったら、このnoteを読み直そう。
自分の文章の持ち味に気づかせてくれるお守りみたいな一文が添えられていて、1週間早いサプライズの誕生日プレゼントをもらった気持ちになった。
華さんはこう言っている。
って。
これから書く文章に、どんな魂をこめていけるか。
ここに書かれた言葉の意味を、本当に理解できているか。
読まれる文章を書く物書きとして、実践していきます。
紹介してもらったnoteはこちら。
ありがとうございます! サポートいただけましたら、より良い文章を書くために、書く以外の余白の時間の充実に使わせていただきます◎