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【映画感想】PERFECT DAYSを見て「彼が羨ましい」と感じた

映画『PERFECT DAYS』を観た。とても評判の映画で以前から気になっていたのだけれど、最近Amazon Primeで観られるようになったので早速鑑賞した。

役所広司さんがトイレ清掃員を演じる映画であるという前知識だけあったので、なんとなく暗い映画を想像していた。主人公が虐げられたり、孤独に苦しんだりする模様が描かれる重たい物語なのではないかと。
確かに明るい映画とは言い難いかもしれないけれど、想像していたような重苦しい映画とは全く異なる内容だった。

この映画では、主人公にとって大きな事件は何も起きない。トイレ清掃員である主人公・平山さんの変わり映えの無い一日のルーチンがただただ描かれていく。その日常の中で、周囲の人間には何らかのドラマが発生するのだけれど、平山さんがそのドラマのメインになることはない。映画の最初と最後を比べても、平山さんの状況はほぼ何も変わらない。

一見すると寂しい人生を送っているようにも見える彼だが、映画のなかでは終始笑みをこぼしている。なんの変わり映えの無い日常のなかで、小さな喜びを感じて、それを反芻して帰り道にニヤニヤする。植物に水をやったり、移動中に好きなカセットテープを聴いたり、寝る前に古本を読んだり、そういった日々のルーチンを愛する。彼にとっては完成された、「完璧な日々」がただ描かれる映画である。

この映画で良いと思ったのは、物語を盛り上げるために露骨に嫌な人間が出てきたり、険悪な展開になったりしない点。そして、メッセージ性を強めようと安易なメタファーを入れない点だ。それゆえに物語としては淡泊でありながらも没入感が強い映画になっていると思う。

映画としての起伏も少なくわかりやすいメッセージ性も無い作品なので、人によってこの映画から感じることは千差万別であると思う(というか、どう感じるかを観る人に委ねている作品だと思う)けれど、自分がこの映画を観てまず思ったことは「彼が羨ましい」ということだった。

もちろん、彼は自分には理解できないほどの悲しみや寂しさもたくさん経験しているだろう。この映画では彼の闇の部分はほとんど描かれないが、それでも彼が蓄積してきた悲しみが表情だけで伝わってくる、役所広司さんの演技力も凄まじいものがある。決して、スローライフを描いたただのほのぼの映画ではない。

しかし、それでも自分は主人公・平山さんのことを「羨ましい」と思った。それは「彼は孤独ではない」と感じたからだ。

少し映画の話から逸れるけれど、自分はこの映画を観る直前に『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』という本を読み終わっていた。
本の内容、感想については記事にしているので気になる方は見ていただけると嬉しい。

この本で紹介されている「UCLA孤独感尺度」という孤独感を測定するテストでは、44点以上だと「強く孤独を感じている」とされているが、自分がやってみた結果は52点だった。自分はどうやらとても強く孤独を感じる人間のようだ。

この本では、「物理的に一人であることと孤独であることは違う」としている。どんなに多くの友人に囲まれていても「自分を理解してくれる人は誰もいない」と感じていれば孤独感が強いし、一人でいる時間が多い人でも「自分は社会(コミュニティ)の一員であり、受け入れられている」と感じていれば孤独感は低い。
自分はまさに前者で、友人と呼べる存在は多いものの、どこかに「どうせ自分のことは理解してもらえない」という壁を作ってしまい、本当の自分として接することができていないという思い込みがある。それは友人に問題があるのではなくて、心を開けない自分に問題があるのだが。

孤独であるがゆえに人を信用できず、心を開けなくなっていく悪循環から抜け出すためには、「見返りを求めず他者に心を開く」ことが大切であるとこの本では述べている。要は、親切で寛大に行動すれば社会的に受け入れられるし、反社会的に行動すれば孤立感は増す、と。
例えば電車で席を譲るとか、店員さんに「ありがとう」と声をかけるとか、そういう「赤の他人に対する小さな善行」によって、自分と他人(社会)との壁が薄くなる感覚を積み重ねていくのが、孤独を脱する第一歩になるのかもしれない。いきなり親友を作ろうとしたり理解者を得ようとするより、まずは他人との壁を薄くすることに慣れていく、他者に心を開くことで受け入れられていく。

話を映画に戻すと、この映画の主人公・平山さんはまさに「他者に心を開いている」と思った。ホームレスや、居酒屋でウザ絡みしてくる客、職場の後輩やその恋人、行きつけのお店のママの元夫にまで、初対面でも心を開く。壁を作って拒絶することをせず、無口でほとんど何も喋らないのに相手を受け入れて、打ち解ける。
これはまさに、『孤独の科学』に記されていた「見返りを求めず他者に心を開くことで社会に受け入れられている」例ではないだろうか。この本を直前に読み終わっていたために、この映画を観たときすべてが繋がったような感覚になり、「彼は孤独ではない」と感じたのだった。

もちろん誰からも受け入れられているわけではなく、彼はまず家族に受け入れられていない。家族という存在から孤立することは特に辛いことであると思う。この、家族との確執については映画内で詳しく描かれないので想像することしかできないけれど、これはむしろ家族の方が主人公に心を開いていないのだろう。どちらかというとこの映画に出てくる彼の妹の方が、孤独で寂しい存在に見える。

この「他者に心を開く」という行為が自分にはことごとく出来ていないということをこの映画を観て思い知った。主人公・平山さんは多くの悲しみを背負った存在かもしれないが、少なくとも自分には無いものをたくさん持っていて、彼なりの「居場所」を持ち得ている。だからこそ自分は「彼のようになりたい」と思ったし、羨ましい、と感じたのだった。

この映画では美しい「木漏れ日」が多く登場する。「木漏れ日」を表現する言葉は日本語にしかないそうだ(エラ・フランシス・サンダースの『翻訳できない世界のことば』という本にも紹介されていた。余談だが『積ん読』と『ボケっと』も日本語にしかない概念らしい)。
影から漏れてくる光、というのはこの映画のなかで唯一わかりやすいメタファーのように思う。自分も木漏れ日のような日々の小さな喜びを掬いあげられる人になりたい。そのために、他者に心を開けるように、平山さんのようにありたいと思った。


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