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信じること。それは希望でもあり呪いでもあるのか。

人を理解したいと思いはじめたきっかけ

週末に2つの映画を観て、気持ちがとても揺さぶられた。
ビューティフルマインドは観たことがあったが、当時は理解することができなかった。
親という立場になって、人を理解しようという気持ちを持つようになった。
子ども生まれて、意思の疎通がままならないその存在はまるで宇宙人のようなものに感じた。
当時はひたすら観察をしていたように思う。

その人を知りたいと思ったとき、聞き出すよりもその人が話したことに耳を傾けたほうが知れる気がする。
それとひたすら観察すること。


強い者と弱い者

「これは身体的な虐待であるだけでなく、精神への虐待でもある」

神のような存在でもある神父が侵害するものでもあったという事実。
宗教は救いにもなるが、その解釈を歪めてしまえば悪意を持つことなく傷つけるものにもなる。
性を搾取されてしまった子たちが、成長と共に違和感を強めていく。当時の現実を消化できない心の葛藤を思うと観ていて苦しくなった。

ある神父の言葉が印象的だった。
「子どもに対して悪戯はした。しかしレイプはしていない。快楽を得てはいない。」
そんなことを言っていた。
すんなり悪戯を認める姿に、悪いことをしたという意識がないことにも驚いたし、その神父自身もレイプされた経験があることに複雑な気持ちになった。

強すぎる権力は腐敗し歪になっていく。
育つ環境の影響そして貧困、大人には行動や環境を変えることで望みはあるけれど、まわりに頼れる大人がいない子どもには絶望しかない。
自分ならどうしただろう…と考えてみたけれど、答えが見えなかった。


その思い出は事実なのか?

存在していると思っていた人が実は存在していなかったと知ったら、その事実を受け入れることはできるだろうか。

過去の大切な思い出が存在していなかったと知ったら、どう思うのだろう。

「精神分裂病」
自分には身近な病気ではなかったため、名前を聞いたことがあるくらいだった。

自分に置き換えて考えてみたら、恐怖でしかなかった。
理想のお母さんをやってみようと思ったとき、わたしは2人の女性を理想像に掲げた。
その方たちは実在する。

ひとりは幼稚園の頃の担任の先生だ。
いつも温かく、そしてやさしい笑顔を向けてくれた。
大好きだったあつこ先生の存在があったから、幼稚園が楽しい思い出として記憶されているのだと思う。

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もうひとりは高校3年生のときの担任の先生。
さっぱりしていて厳しさもあったけれど、強制も矯正もせずにそのまま、ありのままを受け入れてくれた。
わりといい子ちゃんでいたと思うけれど、突拍子もないことを相談なくやってしまっていたから、先生にとっては理解が難しい子でもあったかもしれない笑
このメッセージは卒業式のときにもらったもの。
ある晩、急に思い立って普通のピアスの穴を5ミリほど一気に拡張した。
血がたくさん出たし痛かったけれど、突然起きたその欲求に勝てなかった。
今はだいぶ落ち着いたけれど、「今すぐに!」という謎の衝動が10代後半から20代前半は強かったように思う。

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そんなわたしの理想のお母さん像である2人の先生との思い出も現実ではなくて、わたしの頭がつくりだした想像上の存在だったとしたら…。
きっとわたしも錯乱してしまうと思う。そのあとには無気力になってしまうと思う。
過去に囚われないで過ごしているつもりだが、大切な思い出が無かったことになるのは、歩いてきた道が崩れてしまうような言葉にはできない、なんとも言えない気持ちになるかも…そんなふうに思った。


ふりかえり

過去は過去でしかない。
でも過去が現実に影響を及ぼすこともあるという事実を、知ることができてよかった。
わたしには知り得ない経験をしている人がいて、現在を葛藤を抱えながら生きている人がいる。
そういう人の前では、「過去は過去だ」なんて軽々しく言えない。
人の気持ちを知っていくと、自分の意見は無くなっていく。
大きな声では何も言えなくなっていく。
否定せずに話を聞いて、自分のことに集中しその経験を活かしていくそれだけだ。

学生のころ、部活の練習や試合で「きりかえ!」とか「集中!」などと掛け声をかけあった。
大人になって改めて思うけれど、「きりかえ」と「集中」まじで大切だよね。



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