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雪は時代のしおりです 昭和の小さなepisodeを収集する
自分が存在していた時代の映像を見ると、自分は映ってはないけれど、切り取られた時間と 同じ時間に、わたしも生きていたのだと思えるから親しみが出る。
世田谷クロニクルの『松陰神社 双葉園 雪の日』昭和 50 年 1 月~2 月の8ミリフィルムの映像は、カラーフィルムだけれど無声の18分19秒のホームムービーだ。
このホームムービーが撮影された頃の記憶は、あまりないけれど、すでにわたしはこの世に存在していた。
世田谷クロニクルの『松陰神社 双葉園 雪の日』には、以下のような内容が写っている。
【自宅前の路地で縄跳び、松陰神社への初詣(1月1日)、銀杏売り、お守りの販売、神社の境内、おみくじをくくりつける木、少ない参拝者。自宅前の路地で羽根つき、若林公園のブランコ、親戚宅で麻雀、巻き寿司。向ヶ丘遊園の竹馬、リフト、大階段など。雪の降る日に、自宅の前で雪だるまづくり、庭でのおままごと】
映像の15分57秒頃に注目したい。かなりの雪が降っていて、兄妹が雪だるまを作っている。とにかく大雪だ。踏みしめたら、サクサクと鳴りそうな、質のいい雪に見える。
東京が大雪ならば、わたしの住んでいた茨城県水戸市でも関東近県であるし、天気は あまり変わらないのではないか、と映像を観ていて閃いた。だとしたら、わたしの家のアルバムの中にも、世田谷クロニクル『松陰神社 双葉園 雪の日』と同じ時間を切り取った雪の記録は残ってないだろうか。
関東では雪が珍しいから、写真や映像などで記憶は残りやすいはずだ。まずは世田谷クロニクルの映像の雪のシーンの日時を調べてみた。
◆降雪日を探ってみる
昭和 50 年の天気を調べると、2 月に東京で雪が降ったのは、2 月 21 日しかなかった。だから、世田谷クロニクルの映像の雪の日は、2 月 21 日で間違いない。
ちなみに、茨城県水戸市の天気は、雨のち雪だった。
我が家にあるアルバムに、昭和50年 2 月 21 日の雪の写真がないか調べてみた。すると、2 月 21 日の写真はなかったが、「昭和50年3 月」と記録された雪の写真は見つかった。調べると、水戸で雪が降ったのは 3 月 24 日だとわかる。だとすると、アルバムの写真の日時は昭和50年3月24日となる。なおこの日、東京は雨だった。
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写真に写るわたしは、雪を食べている。子どものころ、母から、木の上にある綺麗な雪だけ は食べていいよ、と言われていたことを思い出した。けっこう木の上に雪は積もっている。茨城ではかなり積もったのだろうか。
◆母の家計簿日記をあたってみた
母が結婚当初からつけていた「日記付き家計簿 昭和50年版」を母に内緒でこっそり読む。
昭和50年1 月 1 日の日記には、「あけましておめでとう ございます。今年は不景気の年。どんな事がまっているのかと思うと嫌になる。家計簿さん、 よろしくね」と書いてあった。この昭和 50 年はオイルショック(昭和 48 年)の影響で景気が悪かった年だ。
オイルショックと言えば、家に長いこと無用の長物としてあった、使っていないセントラル ヒーティングのラジエーターがあった。亡くなった祖父が「セントラルヒーティングを設置してすぐにオイルショックとなり、石油が高くなって使えなくなったんだ」と言っていたのを思い出す。
母に改めてセントラルヒーティングの話を聞いてみると、わたしが赤ちゃんのころは使っていたそうだ。ただ、ものすごく石油を使うのでオイルショックを機にあまり使わなくなったという。
また、子どものころ、 ラジエーターに登って遊んでいたわたしは、足を滑らせて落ち、怪我したこともあったらしい。数年前に、家の改築をしたときに、床下にあったパイプをやっと撤去できた、とのこと。
自分の幼い頃の出来事があぶり出されてくる。
そして、世田谷クロニクルの『松陰神社 双葉園 雪の日』と同じ日、昭和50年2 月 21 日の母の家計簿日記を読むと、なんと雪が降っていたことが書かれていて、鳥肌が立った。雪の写真は残っていなかったが、母の直筆の記録が残っていた。(それも、雪だるまの絵つき。雪だるまの絵が下手すぎ)
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「今日は幼稚園父兄参観である。すごい雨風である。9時少しすぎ出かける。参観していた 窓越しに雪が降って来た。アッという間に真っ白になり、11 時すぎ K(父のこと)に迎えに 来てもらおうと電話をしたらもう出かけたとの事。うれしい! Uさんと外へ出て車の処へ 行った。Sさんと来てチェーンをつけていた。そしたら、パンクもしていた。一時間近く かかる」
日記を読むと、気象庁の記録通り、当日は、雨のち雪だったようだ。雪が降ってきたので、車で幼稚園に行った母を心配した父がうちの車のチェーンを巻きに同僚の車で幼稚園に来た出来事があったなんて!驚きだ。
わたしはまったく記憶はないけれど、気持ちがあたたかくなった。パンクしていたのもドラマチック。当時、乗っていた車はオフホワイトのフォルクスワーゲンだった。
なお、アルバムの雪の日の写真、 3 月 24 日の家計簿日記も調べてみたが、その日は何も書かれていなかった。この週は全く日記が書かれていない。これは、わたしの幼稚園が春休みであることと関係があるのかも知れない。忙しくて日記を書く時間がなかったのかも?
当時のことについて 母にinterview をしてみたかったが、家計簿日記は内緒でこっそりと読んでいるので、聴くに聴けないでいる。
◆新聞で当時の記事を読む
より深く、雪の日の出来事を知るために、県立図書館へ行って当時の新聞を調べてみることにした。新聞の縮刷版で昭和 50 年の朝日新聞と読売 新聞の 1、2 月分を書庫から出してもらって読んだ。とてもアナログな方法で、当時の新聞を ペラペラと一枚ずつめくりながら雪にまつわる記事の見出しを探した。
全体的に見ると、気象庁の過去の天気で東京に雪の記録が残っていないときでも、東京八王子市は雪が降っていたことがわかった。都心から 40 キロ離れた東京西部の多摩地区に位置する八王子市は、 地形的に都心より雪が降り積もる。そういえば、小泉八雲の『雪女』は東京都西部の青梅市が舞台の話だ。
今もそうだが、都心と八王子市、青梅市とでは気温は2度近くも違う。当時の気象観測のスキルを含 め、気象庁の過去の「東京」の天気の記録の見るときには、注意が必要だということを悟る。
世田谷クロニクルで写されていた昭和50年 2 月 21 日の雪の日の記事。この日は、朝の6時から雪は降り続き、6年ぶりの大雪になったと記事には書かれていた。気象庁は大雪の予報を出しておらず、読売、朝日新聞から非難されている。
また、この日は金曜日で、都内の大学入試会場は大変だったとか、小学校は休校や授業打ち切りになったと記事にあった。となると、世田谷クロニクル『松陰神社 双葉園 雪の日』の映像の中の子どもたちは、休校か打ち切りかのどちらかで、家にいて雪だるまを作れていたことがわかる。
わたしは、映像の中で降る雪が、粉雪のように見えていたが、新聞記事によると水分の多い ボタン雪が降ったと書かれていた。ボタン雪なら、雪だるまづくりには適していたことになる。となると、この日は、たくさんの雪だるまが東京のいたるところで作られていたのかも知れない。想像すると楽しくなった。
「雪に弱い都心」というのは、今と同じ様で、この大雪のせいで、交通事故や転倒するけが人がいたり、電車が止まり上野駅で三千人の人が足止めとなったと、記事には書かれていた。
個人的には、上野動物園のパンダの記事に注目。昭和 47 年に中国からやってきたラン ランとカンカン。読売新聞は「パンダ 雪 ホリデー」という見出しを付け、カンカンが雪 の中で遊ぶ様子を伝え、最後に飼育員のコメントとして「この分なら春には期待できますよ とランランとの結婚話に結論を持っていた」とあった。朝日新聞も似たような記事が書かれていて、当時のパンダブームを感じることができた。
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◆雪をしおりとして時代を開く
「雪は天からの手紙です」と言ったのは、物理学者の中谷宇吉郎だが、東京の「雪」の 記憶や記録を掘り起こしていけば、何月何日の出来事だったのか、どんな時代だったのかをたどれると確信した。
それは、現代も続いていて、雪の日のパーソナルな記録はアーカイブされ続けている。それはまるでいつか振り返るときの為に、時代の中に挟まれたしおりのようなマークとなりうる。
東京の最深積雪の歴代記録を見ていたら、観測史上 2 位が昭和 20 年 2 月 22 日で驚いた。 記録は 38cm。その 16 日後は、昭和 20 年 3 月 10 日で東京大空襲の遭った日だ。というこ とは、大空襲当日、もしかしたら根雪が残っていたかも知れないという想像ができた。 そういえば、東京大空襲の年の冬はとても寒かったらしく、石炭も手に入らず暖を取る手段がなくて、木造の家の一部をはがして燃やしていたという話を聞いたことがあった。
また、東京大空襲で亡くなった下町の人たちを池袋へ仮埋葬したとき、あとで掘りだす為の目印として木で墓標を建てていたが、その木の墓標が、寒さに耐えかねたひとたちによって持ち去られ念力とされた、 という話も知り合いから聞いていた。この話は、こころには残っていたけれど、あまり重要視はしていなかったと思う。でも、16 日前に東京で大雪が降ったことを知り、話の重みが変ってきた。
昭和 20 年はとても寒かったのだ。肌感覚での追体験が上書きされていく。もしも東京大空襲がなかったら、昭和 20 年の大雪こそが東京の昭和 20 年を紐解くしおりとなったかも知れない。
また、昭和 20 年は戦時中で天気予報を国民は知ることが出来なかった。だとしたら、38c mも積もった大雪による被害は大きかったかもしれない。
***
世田谷クロニクルの雪の映像から、さまざまな雪の話へと困ってしまうくらいにどんどん 転がっていってしまった。雪だるまみたいに、どんどん話は増えていき、大きくなっていく。でも、これらの話は世田谷クロニクルの映像と全く別次元の無関係な話ではなく、すべて地続きの話でもあるんだよな、と思うと感慨深くなった。
すべては巧みに繋がっている。