#236:現金離れ
息子のお年玉を入金するため、久しぶりにATMに並んだ。もうかれこれ3年ぶりくらいに並んだ。
現金離れ
以前から現金を使う機会は徐々に減りつつあったがコロナ禍で長期間外出せず、現金を払うことが少なくなった。そしてコロナ禍後でもキャッシュレスという流れは止まらず、世の中の現金離れが加速している気がする。(個人の感想)
今回は息子のお年玉入金および通帳記帳という特殊要因があり、久々にATMで並ぶことになった。
しかし、最近ではお年玉ですらキャッシュレスの波にさらされているようだ。
我が親族に某〇〇Payに勤めている人間がおり、息子は〇〇Payの送金機能でお年玉をもらっていた。将来のユーザ獲得としては、お年玉から切り崩すのは理にかなっていると思う。
もはや、お年玉用にポチ袋を用意すること自体も何年後かには昔の記憶となるのかも知れない。
非現金主義
個人的にはITを仕事にしており、財布の中に小銭がじゃらじゃらあるのも昔から好きではないため、このキャッシュレスの波は大歓迎である。
大きな現金を持ち歩くリスクも負いたくないので何か高額な買い物があれば、できればクレジットカードでの支払いかネットバンキングでの振込でお願いしたいとも常に考えている。
全く現金主義とは真逆の非現金主義である。
現金主義になる時
そんな価値観で普段生きていながら、ある時だけ唯一、現金主義に肩入れしてしまう場面がある。
それは落語の世界に浸る時。
落語の世界では、お金(銭とか、お足とか呼ぶ)絡みの話がかなりたくさん出てくる。しかも概念のお金というより、物理的なお金そのものの話。
〇〇Payでは蕎麦屋の支払いを一文だけごまかすこともできないし、大金の入った財布を朝の海岸で拾う話も現金の手触り感があってこそ。
また落語に出てくる人たちは、よく大金を落としたり忘れてきたりして話が転がるのだが、それも物理的にお金を持ち運ぶから話として成り立つ。
こればかりは、全て現金が前提となっている。
目の前に、お金そのものが現金として存在してるからこその一喜一憂があり、人としての愚かしさや清廉さをくっきりと浮き彫りにする面がある。
そう考えると、普段の生活レベルでは合理的に考えて非現金主義だが、落語などの物語レベルでは情緒的に現金主義を推すという矛盾の中にいる。
お金に対する感覚
私が現金主義なのか非現金主義なのかという話はまあどっちにしてもどうでも良い話ではある。(好きにしろよ、という感じ)
ただキャッシュレスが今後より浸透していくと、世間のお金に対する感覚が変わる気がしている。
いや、もう既に変わってきているのだろう。
例えば、20年以上前の学生時代にアルバイトした際に現金でバイト代を支給されたことがあった。もちろん今でも現金支給の場所もあるだろうが、大半の会社やバイトでは銀行振込が主流だろう。(その他のキャッシュレスも今後増えるかも)
懐古主義に聞こえるかもしれないが、現金支給と銀行振込ではやはり手触り感は違った。たぶん現金が目の前にある方が脳としても解釈しやすいんだろうと思う。労働の対価としてどれくらいの金銭がもらえるのかをはっきりと意識できた。
それはただの紙の給与明細書であったとしても。
給与明細がWeb化される以前、紙の給与明細書は家の引き出しに入れて捨てずにいた。いまでは、毎月の給与明細発行の知らせが来ても、web画面をチラッと見るか見ないか。気のせいかもしれないが、以前より興味が落ちている。
このように収入面では、だいぶお金との距離感は既に変化してきているよう。
今のキャッシュレスの波は、恐らく生活者として支出面でも現金を使わなくなることを意味する。
そうなると、いよいよ現金は普段から目にせず、全て画面上の数字の羅列でお金の増減を意識する感じになるだろうと想像する。
もちろん随分前からクレジットカードしか使わない人にとっては、既にそういう世界観だと思うが今後より広まるのだと思う。
…
お金に対してリアルな感覚は失われていくことでこれまで物語レベルでお金に感じた情緒的な要素は今後どんどん削ぎ落とされるのだろう。
それも悪くない。というか、悪いも良いもない。
落語の現金を前提とした世界観も共感できる端境の世代としては少し複雑な想いもあるが、そうやって色んなことが変わっていくのが世の常なのかと思ったりもする。
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